アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

意志の唯物性 意識はどれほど物理的か

17 自由

 進化論の説くところによれば、ぼくらはあらかじめ創造された天地に投げ込まれたアダムとイブではないのである。わかるべき世界にわかりたい者が投げ出されたのではなく、わかるべき世界とわかろうとする者とが、互いに互いを作り合ってきたのだ。

「森田真生 数をめぐる一七の断章」より

 

インターステラー 5次限空間について

柴崎友香『わたしがいなかった街で』

  マンションの三階の部屋に辿り着くと朝早い仕事の母はとっくに寝たあとだった。ノートパソコンを開いて知人のブログを巡回しながら、焼き鳥とこんにゃくと糸こんにゃくとうどんを食べた。知人たちは概して「相変わらず」という感じだった。最近食べたもの、最近見た面白い画像へのリンク、職場の愚痴、取ってつけたようながんばろうとか仲間に感謝してるというような言葉。太田の両親がやっていたスーパーが閉店したことを書いていた同級生のブログを見ると、会社を辞めて中国語の勉強に行くと書いてあり、今日食べたラーメンの写真がアップされていた。

 中国語わたしもやりたいな、がんばってー、と適当なコメントを書き込みながら、まあなんというか、自分の周りはこういう感じで時間が経っていくんだろうな、と夏は思った。今はそれなりに、高級ではないけれどおいしいものを食べて三分ぐらいの動画見て笑って、自分たちはそこそこがんばっているのだと確認するためのコメントをしあっているうちに、だんだん先細りしていって、近所の店は閉店し、親は歳を取る。自分は、今の仕事が続く限りはあの職場に通いそうだ。結婚したいという気持ちは全く起こらないし、恋人がほしいとも思えない。じゃあ、ずっとここで母と暮らすんだろうか。(文庫 p118)

 00年「きょうのできごと」から注目していて、映画化されたものもビデオで観ており、今回読了は2冊目。(!注目って…)描写が非常に巧みでほんの一部分を切り取ってみても、背景を読み取ることが可能な細部を書き込んでいる。

鼠骨来る 共に午餐をくふ/鼠骨去る 左千夫義郎蕨真来る 晩餐(鰻飯)を共にす 正岡子規

◇ 病床で激痛にのたうちまわる俳人を、友人や弟子筋がひっきりなしに見舞う。まるで病床がサロンになったかのよう。代わりに痛むわけにはいかないけれど、傍らでしばし気を散らせることはできる。そこには痛む人を孤立させないという知恵が働いていた。そういう形で、痛む人を支える〈痛みの文化〉があった。「仰臥漫録」から。                                              

(「折々のことば」鷲田清一2016.10.8朝日新聞

 

 痛む人たちのその痛みを和らげようと、システムが行政が生活支援をメンタルケアを公的サービスとして行う。もしくは、市場のなかで対価を支払ってセルフケアを行う。そのような贈与や交換のような「和らげ」ではなく、もっと、「純粋贈与」のような、「おせっかい」はないか。誰かが何の得にもならなくても、悩みを聞いてくれないか。悩む前に、多くの悩みを未遂で終わらせることはできないものか。

 

 ミヒャエル・エンデ『モモ』で読んだように、みんなそのための時間をドロボウされてしまっているんだろうな。

人間が抱く嫉妬のなかで最も暗くて陰湿なのは、対象となる人間の正しさや立派さに対してなの。 宮本輝

◇ 心ある大人たちに育てられた戦災孤児は成長して、長く住み込みで働いた先の老婦人にこう言われる。人は、正しいことをまっすぐにできる人のその“無垢”に嫉妬することがある。その伸びやかな光に照らされると、意識にいつも屈折を強いてきた自身の境遇ないしは悲しき性に、思いがつい向かうから。小説「骸骨ビルの庭」より。

(2016.8.23朝日新聞朝刊「折々のことば」鷲田清一

 

がんばれ、といわれて育った。ぎりぎりまでがんばれ。

 努力もしないうちから自分には何もできないと思っている人のことを生ぬるいと思ってしまう。何もできなくてもそれでいいと思っていて、いざというときには誰かが助けてくれると思っていて。その白砂糖みたいな甘さに身震いが出る。そういう人たちの引っかかりのなさが不気味だった。かっこいいとか、きれいだとか、できるとか、速いとか、うまいとか、いろんなほめ言葉を口にするときに、どこにも引っかからないらしい。その称賛を受ける人は、それだけのことを積み重ねてきている。悔しいとは思わないのだろうか。屈託のないほめ言葉を聞くと、無神経な手で首筋を撫でられるような心地がした。

宮下奈都『終わらない歌』より

 人は安易に他人の美点を褒めるが、自分がそれと同じことをやろうとは思わない。実際に自分ではやらずに「やれないし、やらなくてよい」と思いこんでいる人がいて、そういう人の言葉が気持ち悪い。「正しくて立派なこと」とはそれを行動として「できる」ということであって、他人の「正しくて立派なこと」を安易に口先だけで、肯定も否定もするな!ということ。嫉妬も称賛もするな、ということ。と考えますか。

 

 

 

 

 

 

 

行動を起こさないわれらの仲間たち

人類は目に見えないものを見る能力を持ち、歴史に対する想像力、伝統に対する創造力などはその最たるもので、歴史意識の欠如とは、個々の歴史的知識をあまり多くは持っていないということではなく、無限に詳細な探究を可能とする時空や事象の地平が、そのつどそのつどの過去や現在や未来に存在しているということを、決して到達できないイデアとして持ちながら、そこに到達しようと個々の歴史について知ろうとする営みを放棄するということである。いま目の前にある、自分の生活を構成する事物の来歴に対する歴史意識の欠如が、未来世代へと働きかける自らの行動、思考を取りやめさせ、目先の利益や、がなり立てる大声に対する追従を生み出す。

 

イデアとは、プラトン哲学の中心概念で、理性によってのみ認識される実在。感覚的世界の個物の本質・原型。また価値判断の基準となる、永遠不変の価値。近世以降、観念また理念の意となる。実在とは、観念、想像、幻覚など主観的なものに対し、客観的に存在するもの、またはその在り方。HatenaKeywordより