アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

津島佑子『半減期を祝って』(2)

自分の子どもがまだ小さい親たちは、先の話だと思って、知らんぷりを決めこんでいる。子どもが中学生になったら、留学させるつもりでいる親も少なくない。今のところ、まだそんな抜け道が残されてはいる。お金さえあれば、なんとかなるという考え方が、三十年前から幅をきかせていたが、最近になってますます横行するようになった。(p88)

早期教育だといって、いくつもの習い事をさせ、学習塾や英会話塾に通わせるのは何のためか。中高一貫の有名私立から、東大京大、医学部医学科、英米の有名大学へと学歴を身につけさせるのはなんのためか。

津島佑子『半減期を祝って』(1)

子どもたちの運動会と言えば、最近、新しい法律をめぐって大騒ぎになっているらしい。中学生の親たちのなかには、どうしたってこんな法律には承服できない、と国会議事堂まで行き、むかしなつかしい座り込みをしているひとたちもいるという。

四、五年前に、独裁政権が熱心に後押しをして、「愛国少年(少女)団」と称する組織、略して「ASD」ができ、それが熱狂的にもてはやされるようになった。子どもたちがむやみに入団したがるので、順番待ちの状態になっている。「ASD」をモデルにした漫画がこのブームを作り出したという話だった。キャラクターつきの商品も売り出されているが、いつでも入荷待ちの状態で、それでますます人気があおられる。

その動きに眉をひそめる親たちは子どもたちを叱り、引き留めようとする。あんなものにおどらされちゃいけない、と。「ASD」に熱中する子どもたちは、「神国ニホン、バンザイ!」とか、「われら神の子に栄光あれ」とか、極端に神がかった、しかも、いかにも漫画的なことばを本気で口にしはじめるので、親たちの心配も無理はなかった。けれど、政権側は政権側で黙っていない。「ASD」に子どもを入れたがらないような独善的な親は決して見逃せない、ということで、新しい法律を作ろうとしている。「ASD」をきらい、無視しようとすれば、親としての責任放棄の罪を問われ、最低十年の禁固に親たちは処せられるというとんでもない内容の法律らしい。

親が逮捕されたらどっちみち、子どもたちは「ASD」に行くことになるので、それならはじめから入団させておこう、という親が増えている。どうしても入団を拒否しつづけようと思ったら、ほかの国に亡命するしかない。

ASD」は十四歳から十八歳までの四年間の子どもたちが対象となっていて、十八歳を過ぎたら今度は、男女を問わず、国防軍に入らなければならない。「ASD」の出身者であれば、優先的に国防軍の幹部候補として扱われる。つまり、戦争をどの国ともしていない現在は、貴族のような待遇を享受できることになる。(p87~88)

 あと「メリトクラシ―」と「国際資本の動き」を味付けして、「戦争をどの国ともしていない」を「している」と訂正すれば、現在のこの国の有り様が正確に描写されているといえる。

そして、これはいま現実の私たちの欲望を表しているとも感じるし、まさにそれを目の前にした時の私たちのとるはずの行動、そして目の前に2017年の社会/世界の現実を前に、自分たちに内面化された価値に従って、いま現に私たちがとっている行動をいきいきと描写しているとも。

どの世代にとっても自分の生きている現実は、デフォルトスタンダードからの漸進的な変化の結果にすぎないので、日常を過ごすなかで見聞きする社会情勢はとてもの馴染みのある世界のものと感じられるのがふつうである。

 

「小説」について(1‐1「想像的なものとの出会い」モーリス・ブランショ『来るべき書物』粟津則雄訳)

あらかじめ宿命づけられたこのつつましさ、何ものも願わず何ものにも到りつくまいとするこの欲求、これらが、多くの小説を、何ひとつ非難すべき点のない書物と化し、小説というジャンルをあらゆるジャンルのなかでもっとも好ましいジャンルと化するに足りることを認めねばならぬ。この小説というジャンルは、その控え目な性質と楽しげな無力さとによって、他の諸ジャンルが本質的なものと称することで破壊しているものを忘れ去ることをつとめとしてきた。気晴らしこそ、小説の内奥の歌である。絶えず方向を変え、まるで出まかせのように進み、ある不安な動き、幸福な放心へと変形する動きを通して、いっさいの目標をのがれ去ること、これが、小説が小説たることを示す第一のもっとも確かな証拠であった。人間的時間を、或る遊びと化すること、この遊びを、いっさいの直接的な利害関心や、いっさいの有用性から解放された、本質的に表面的な、そのくせこの表面の動きを通して存在のすべてを吸い取ることの出来るような、自由な仕事と化すること、これは容易なことではない。小説が、今日このような役割を充分に果たしてはいないとしても、明らかにそれは、技術によって、人間の時間と、時間から気をまぎらせる諸手段が変えられてしまったからである。

人を動員するための方法の一つとして用いられるプロパガンダ装置と誤認され、誤配されることでブランショの云う「小説」がだれが意図するということもなく成り立つとも考えられるのだが、それは抽象的な解釈の中でのみ、つまり観念的対象としてそれを考えるときにだけ成り立つにすぎない「概念」である。というのも、政治性を剥奪された純粋なだけの物語の作用というものは考えられず、それがやっと「小説」と名づけられ、考察の対象となると同時に上記のような記述が可能となることからもわかる。ただ、非日常的に自由な境地を求める読者というものはしばしば存在するし、自由を描くことばかりではなく、反対に不自由を描くことによってそれが十分に達成されることがあることも忘れてはいけない。あらゆる微細な政治性から解放されるということはもちろん不可能だとしても、「小説」が時間からの解放、自由を企図していることがその本質的な性質だとは言うことができるし、それが「小説」とそれ以外のものとを区別する指標だと考えると分かり易かろう。

「犬どもを放してやれ」と保安官は言った。(フォークナー『八月の光』諏訪部浩一訳(岩波文庫))

「綱が邪魔で好きに動けないかもしれん」一同はそうした。犬たちはいまや自由の身となり、三十分後には迷子になった。人間たちが犬を見失ったのではなく、犬たちが人間を見失ったのである。二匹は小川と丘をこえたところにいたので、男たちにはその声がはっきりと聞こえた。いまでは―誇りや確信、そしておそらくは喜びをもって―吠え立ててはいなかった。いま犬たちがあげているのは、長く引きのばされた情けない嘆きの声だった。男たちはそちらの方に向けてずっと叫び続けたが、犬たちは耳も聞こえないようだった。二匹の鳴き声はそれぞれ違っていたが、その鐘の音にも似たみじめな嘆きの声は一つの喉から発せられているようで、まるで二頭の獣がぴったりと体を寄せあってうずくまっているというようだった。しばらくすると、犬たちがそのようにして溝の中にうずくまっているのが見つかった。その頃には、鳴き声はほとんど子供の声のようになっていた。男たちはそこにしゃがみこみ、明るくなって車までの道が見えるようになるのを待った。かくして月曜の朝になった。

“Turn them dogs loose,” the sheriff said. “Maybe them leashes worry them.” They did so. The dogs were free now; thirty minutes later they were lost. Not the men lost the dogs; the dogs lost the men. They were just across a small creek and a ridge, and the men could hear them plainly. They were not baying now, with pride and assurance and perhaps pleasure. The sound which they now made was a longdrawn and hopeless wailing, while steadily the men shouted at them. But apparently the animals could not hear either. Both voices were distinguishable, yet the belllike and abject wailing seemed to come from a single throat, as though the two beasts crouched flank to flank. After a while the men found them so, crouched in a ditch. By that time their voices sounded almost like the voices of children. The men squatted there until it was light enough to find their way back to the cars. Then it was Monday morning.

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』「結婚と井戸掘り」 ある小太りの占い師が…

ある小太りの占い師があなたには御先祖様の加護があるから一生幸せで、不幸なことになりかけても周りの人が助けてしまい、少なくともプラスマイナス・ゼロになりますと言った通り、てんで幸福で日々の些末な葛藤以外、コミットすべき困難も人生のテーマもさしてこれといって思い浮かばない。

村上 何度も結婚する人がいますよね、3回も4回も。

河合 そういうのは大抵、井戸掘りを拒否しているんですね。井戸を掘るのはしんどいから、掘らないであちこち別の人を探しているけれど、結局、同じような人を相手にしていますよ。

 

ほとんどのひとが井戸掘りなんてするつもりもないが、意識せずに掘っているということか。わたしは何を掘るつもりなのか。

村上 …いろいろなかたちで彼はコミットメントを迫られる。ただ奥さんのクミコさんだけが逃げていく。去っていく。でも、彼がほんとうにコミットしたいのは彼女なのです。

河合 あるいは、言いようによると、それまでコミットして来た人たちは、クミコさんにコミットするための通路のようなものだったのでしょうか。

 (『村上春樹河合隼雄に会いにいく』「結婚と井戸掘り」)

んん…

軍事力ではなく自らの社会制度を最善に高めること

8月6日(日)朝日新聞書評 立野純二評『歴史の逆襲』ジェニファー・ウェルシュ

カナダ人学者の著者が今後の指針とみるのは、冷戦期の米戦略家ジョージ・ケナン氏の勧告である。

ソ連に対抗する最高の手段は、軍事力ではなく、自らの社会制度を最善に高めることだ―。自由民主主義の脆弱さを予見したうえでの結論だったと思う。

 

少なくとも一人でも、そんなふうに考えられる「戦略家」が日本の政府(行政機関)にいるだろうか。祈るような気持ちで。

キミたちは自分で経験しなければ分からないほどのバカか?

愚者は経験に学び、賢者歴史に学ぶ。

愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。
Nur ein Idiot glaubt, aus den eigenen Erfahrungen zu lernen.
Ich ziehe es vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.
愚者は自分の経験に学ぶと言う、私はむしろ他人の経験に学ぶのを好む。
Fools say they learn from experience; I prefer to learn from the experience of others.

 ウィキペディア:「オットー・フォン・ビスマルク(1815年 - 1898年)

ソーセージ法律の作り方に無知であるほど、その人はよく眠ることだろう。Je weniger die Leute darüber wissen, wie Würste und Gesetze gemacht werden, desto besser schlafen sie nachts.

ソーセージと法律の作り方を知る人は、もはや安眠することが出来ない。

Wer weiß, wie Gesetze und Würste zustande kommen, der kann nachts nicht mehr ruhig schlafen.