アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

これこのようにあのひとは想像力を無限の細部に誘いこむ

 こんな経験は誰にでもあるだろう。誰かを好きになり、もうその相手にばかり心が向かっているときには、ほとんどあらゆる本のなかに、当の相手の姿が浮かびあがってくるのだ。実際、その人物は主役としても敵役としても登場する。物語のなかで、長編小説、短編小説のなかで、つぎつぎと姿を変えてその人物は現れる。
 このことから帰結するのは、想像力とは、無限の細部に書き込みを行う能力である、ということである。想像力は、どんな集中性であっても外部に伸び拡がった部分を持つものと見なし、新たな充実した内容をその集中性に対して案出するのである。要するに、想像力とは、あらゆる像を、折り畳まれた扇に描かれた像であるかのようにして受け取る能力なのである。扇に描かれた像は、開かれてはじめて、その内部に蔵されていた愛しい人物の顔立ちを、新たな拡がりのもとに映し出してくれるのだから。

「扇」(ヴァルター・ベンヤミン『この道、一方通行』p82-83)より

  「本のなか」ばかりではなく、ひとの話のなかにも、風景のなかにも、その細部にいつも姿をあらわすわたしにとってのその人物は、扇は扇でも幾重にも折り畳まれ、強く想像力を刺激する扇。かのひとは、このわたしの想像力のセカイ全体を纏い、いつもわたしの意志を鼓舞し、あかるくこのわたしたちの生きる世界を照らしだす。

 

 

それはあまりに人間的な…

 世のひとは、あまりにもどうでもよいことにムキになり、それがさも重大事であるかのように騒ぎ立て、挙句の果てにそれがじぶん自身演技だったことも忘れ、ノリで乗っていたことを忘れ、本当はそもそも何が大事なことだったのかもわからなくなる。それが現代人多くの症状であり、それはあまりに人間的といえばいえる。現代は歴史的条件が整ってしまったのだ。だれもが罹る伝染性の病。芸能プロダクションの不祥事や有名人の不倫、ドラッグの問題。当事者にとって意味がないとはまでは言わないが、あなたにとっての問題はそのことじゃなく、お金のこと?人間関係のこと?……それもでも「ほんとうの問題」なのかどうか…判断基準を失い、そのつどそのつどの出来事にじぶんの感覚をシンクロさせていく。それがわたしたちの日常、日々の生活、そして人生になっている。ひとが騒ぎ立てる問題に、じぶんの今を当てはめて、じぶん自身の生活をチェックして、気分が上がったり下がったりして、それがあなたの人生の時間を構成している。だが、ほんとうの問題は、あなたに言葉が不足していること、言葉が貧しいのだ。そしてあなたに言葉があっても、あまりに忙しくしすぎているので、その言葉を操って、ほんとうの問題を見えるようにすることができない。その作業はだれも手伝ってはくれないし、むしろ世の中には、あなたがそうすることを邪魔してくるひとばかり。

オーウェルは我々から情報を奪うものを恐れた」とニール・ポストマン(『愉しみながら死んでいく』1985)は記した。「ハクスリーは、我々が受動性とエゴイズムに陥るまでに多くを与える者を恐れた。オーウェルは真実が我々から隠されることを危ぶんだ。ハクスリーは無意味なものだらけの海に真実が溺れることを危ぶんだ」。

 ポストマンが言うには、ハクスリーのディストピアは二〇世紀後半に既に実現しつつあった。全体主義国家に対するオーウェルの懸念がソ連に当てはまる一方で、西側リベラル民主主義国家への脅威(これが一九八五年のことだったと覚えておいてほしい)は「あからさまにつまらない事柄によって麻痺するあまりに、責任ある市民として関与できない人々をめぐるハクスリーの悪夢によって象徴されているとポストマンは主張した。

 ポストマンによるこれらの考察は時代を先取りしており、ジョージ・ソーンダーズによって繰り返されることになる。二〇〇七年のエッセイ『The Braindead Megaphone(脳死のメガフォン)』で彼は、全国規模の会話がO.J.シンプソンやモニカ・ルインスキーを扱う長年の報道によって危険なほど堕落したと論じた。我々の国単位の言語は俗物化され、同時に「攻撃的で、不安を呼び起こし、感傷的で、対立を煽る」あまり、イラクを侵略しようかと真剣な議論を試みる時が訪れた頃には「我々は無防備だった」と彼は述べた。我々が手にしていたのは、「O・Jなどを論じるために使っていた未熟で誇張的な道具一式」だけだった。それは彼がメガホン男と呼ぶ、耳障りな知ったかぶりの何も分かっていない人物が叫ぶ戯言だ。そのハンドマイクは知能レベルが「バカ」、音量が「すべての他者をかき消す」に設定されている。

(ミチコ・カクタニ『真実の終わり』岡崎玲子訳(集英社)p136)

 

真実の終わり

 

 

柄谷行人「丸山眞男の永久革命」より引用備忘『世界』1907号

…日本のファシズムを考察しようとした彼(=丸山眞男)の仕事は、つぎのようなフロイトの言葉に対応するものであったといえる。

 

 マルクス主義のすぐれたところは、察しますに、歴史の理解の仕方とそれにもとづいた未来の予言にあるのではなく、人間の経済的関係が知的、倫理的、芸術的な考え方に及ぼす避けがたい影響を、切れ味鋭く立証したところにあります。これによって、それまではほとんど完璧に見誤られていた一連の因果関係と依存関係が暴き出されることになったわけです。しかしながら、経済的動機が社会における人間の行動を決定する唯一のものだとまで極論されますと、私たちといたしましては、受け入れることができなくなります。さまざまに異なった個人や種族や民族が、同じ経済的条件下にあってもそれぞれ異なった動きをするというまぎれもない事実ひとつを見ただけでも、経済的動機の専一的支配というものが成り立たないことが分かるはずです。そもそも理解できないのは、生きて動く人間の反応が問題になる場合に、どうして心理的ファクターを無視してよいわけがあろうかという点です。と申しますのも、経済的諸関係が生み出されるところにはすでに、そうした心理的ファクターが関与していたはずだからですし、そればかりか、経済的諸関係の支配がすでに行き渡っているところでも、人間は、ほかでもない、自己保存欲動、攻撃欲、愛情欲求など、自らの根源的な欲動の蠢きを発動させ、快獲得と不快忌避を衝迫的に求めるからです。あるいはまた、以前の探究で超自我の重要な要求について論じておきましたように、超自我が、過去の伝統と理想形成を代表し、新たな経済状況からの動因に対してしばらくのあいだは抵抗したりもするわけです。(「続・精神分析入門講義」、『フロイト全集二一』岩波書店、二〇一一年、二三五-二三六頁)

 柄谷行人が目指す「アソシエーション」創設を、丸山眞男も目指していたのであり、それを丸山は「民主主義」と呼んでいた。それは「永久革命」的な理想の民主主義への接近であり、ソ連社会主義国家主義)ではないが、アメリカ的民主主義(自由主義)でもないものである。

ミシェル・ウェルベック『ショーペンハウアーとともに』(2)

 人間にとって存在し、生み出されるあらゆるものは、直接的には人間の意識のなかに、また意識にとって存在し、生み出されているにすぎない。したがって、何よりも重要なのは、意識の性質なのであって、たいていの場合、すべては意識のうちに現れた様相にではなく、意識の性質によるのだ。…(中略)…(人間は)それぞれの個性によって可能な幸福の範囲はあらかじめ決まっている。とりわけ精神的能力の限界によって、高尚な享楽を味わう能力は決定的に定められている。…(中略)…もっとも高尚で多様で長続きする享楽は精神的享楽であり、これは主に生まれつきの能力に左右されるからだ。したがって幸福は「その人が何者か」ということ、つまり各人の個性によることは明らかだ。ところが多くの場合、ひとは運命ばかりを考慮する、…(中略)…内面が豊かなものは運命に多くを期待することもないだろう。一方、馬鹿者はいつまでたっても馬鹿者だし、愚鈍な者はたとえイスラームの天国で美しい処女たちに取り巻かれたとしても愚鈍なままだろう。(ショーペンハウアー『幸福について』第1章より)

 

…(略)…「享楽」という一般的な言葉を用いていることもだ。馬鹿者が、交響曲や精緻な論証の美をほとんど味わえないことは、たやすく納得できるだろう。だが、例がフェラチオだったら、もっと驚きではないか。しかし、これは経験によって確認できることだ。快楽の豊かさは、性的快楽の場合ですら知的なもののうちにあるし、直接に、それぞれの能力に比例する。残念なことに苦痛の場合もそうだ。

 普通人の単純な歓び(一家団欒や気取らない人間関係)に関する部分は、現在では幾ばくかの寂しさなしには読むことができないだろう。現代社会においては、そんなささやかな歓びはほとんど「失われた楽園」のように見える。官能的な享楽も、ますます稀になっている。そして、これらの幸福が減少しているのは、もちろん、「精神の高尚な享楽」が優遇されているためではない。ショーペンハウアーが罠とみなしたもの、つまり、金銭や名声(所有物と見せかけ)が優遇されているためだ。

(ミシェル・ウェルベックショーペンハウアーとともに』「第5章 人生をどう生きるか わたしたちは何者か」(澤田直訳)より)

 

 ショーペンハウアーは、人は生まれついて能力のある者とない者とに分かれており、それが一生変わることはないという前提でこの引用部分を書いているように読める。ウェルベックもまた、全面的な肯定は控えながらも、そこはあまり問題にしている節がない。ただ社会の変化の中で、我々現代人の享楽が変化したことのみを指摘するにとどめる。

 いずれにせよ、知的な能力が(それが生得的なものであれ後天的なものであれ)享楽のあり方を決めるという考え方は、私自身も若いころからなじんできたものであるし、小谷野敦もポルノグラフィーを論じる際に、知的能力の高低が、その楽しみを決定するということをどっかで述べていた(はず…)。

 ショーペンハウアーの論を敷衍して、特定の教条に囚われない享楽のスタイルが、快楽の豊かさを生み出すという事実が、この世界の自由なあり方と、そのこととつながる幸福のあり方を示唆しているように感じられる。

「雛の春」古井由吉

 金曜日に例のごとくひと月遅れの『群像』、『新潮』、『文學界』、『すばる』七月号が県立図書館から届いたので早速目を通す。

 『群像』はエッセイや書評は見るべきものなくスルー。西村賢太藤澤清造の小説を紹介している「乳首を見る」と、松浦寿輝沼野充義田中純の鼎談「二〇世紀の思想・文学・芸術」は後の楽しみに取っておく。笙野頼子の「会いに行って―静流藤娘紀行」は、六月号の第一回がすこぶる面白く、これも取っておく。

今日はとりあえず、ブレイディみかこ「ブロークン・ブリテンに聞け(17)」

 『すばる』は特集の「教育が変わる 教育を変える」に読むものがいっぱいありそうなので、この一週間で処理していく予定。あとは野崎歓東京大学最終講義「ネルヴァルと夢の書物」くらいか。

 『文學界』はいまいちで、短いエッセイ鴻巣友季子村上春樹「猫を棄てる」をめぐって、小谷野敦「『魅せられたる魂』と川端康成」、武田砂鉄「時事殺し(41)」をよんだくらい。

 最後の「時事殺し」は、『新潮』の辻田真佐憲「プロパガンダから遠く離れて」と相まって、いろいろと考えさせられた。

 昨晩から何本も見た参院選がらみのYouTube動画(とくに「れいわ新撰組山本太郎の国会での質問や街頭演説でのものだが、そ)のなかで首相をはじめとする自民党国会議員の態度や、「自民党の政策を批判する立場」を批判する市民の意見から、人が知っていると自分で思っている「基本的な事実」は、その人が触れる情報の多寡や質の差、さらにはそれぞれの理解能力、さらにいえば政治的意図などが複雑な層構造を形成しており、それが前提となる限り、意見交換の際には、「意志疎通の困難/不可能」として現象化してしまうということを思い知らされた。

 そして、『新潮』では、先月号の先崎彰容「天皇と人間―坂口安吾和辻哲郎」に対する安藤礼二「公開質問状」は、ちとドキドキした。本当に先崎は安藤の著作をちゃんと読んでいないんだろうか……そして自分の日々の態度を反省した…かな?

 さいごに、古井由吉の新連作から。

 人は一夜の内にも八億のことを思うというような言葉が、どういう文脈の内か知らないが、仏典のほうにあるそうだ。八億とまではいかなくても、人は一夜に千の事を、胸の内でつぶやいているとも考えられる。すべて由なき繰り言のようでも、千にひとつ、あるいは千全体でひとつ、おのれの生涯の実相に触れているのかもしれない。ほんとうのことは、それ自体埒もない言葉の、取りとめもないつぶやき返しによってしか、表せないものなのか。本人はそれとも知らない。ましていたく老いて病めば、長年胸にしまっていたつぶやきが、眠れぬ夜にはひとりでに口からしまりもなく洩れる。聞いていると、いよいよ口説きつのる声が夜じゅう続きそうに思われたが、ふっと止んで、それきり途絶えた。やはり相手はいて、そっぽを向かれたのではないかと思った。(古井由吉「雛の春」『新潮』七月号p10)

  日々の寝つきや夜半ふと物音で目覚めてしまった時など、意識によぎるつぶやきは確かに、寝ざめのその直前までは妙に強い現実的切迫を持っているのにもかかわらず、はっきりと目覚めてみるともとより記憶にとどまらないものがほとんどで、かろうじて残っていたものも、特に言葉としては陳腐で、たしかにあった感覚の面での実感もほんの数瞬を経ると、遠い他人事に対する感想のように、見慣れた紋切り型に感じられてしまうものだ。そうして、頬に涙の跡や怒りに震えたくちびるの疲労だけがのこっているというのはあまりに物語じみているか。それでも、多くの実感を思い出すことができる描写だ。

 古井や堀江敏幸また読みたくなってきた。

 

ミシェル・ウェルベック『ショーペンハウアーとともに』(1)

 一般に、あらゆる時代の賢人たちは常に同じことを語ってきたし、あらゆる時代の愚者たちは、つまり圧倒的大多数は常に同じことを、つまり、賢者たちの言ったことと反対のことを行ってきた。それは今後も変わらないだろう。だからこそ、ヴォルテールは述べたのだ。「私たちは、生を受けたときと同様に、愚かで悪意に満ちたままの世界を去るだろう」と。(第5章「人生をどう生きるか 私たちは何者なのか」)

 ほんとうに悲観的な見解だけど、同意せざるを得ない見通しではないかと思う。にもかかわらず、というか、それとは関係なく、人間にとってこの生の世界は幸福で意味のある世界でありうると、この後の引用から確信することができるようになっている。が、それはまた次回。

 

 

 

「天皇と国家」先崎彰容(2)

 なにを基準に世界を色分けし、選択すればよいのか。意外なほど自己判断には迷いがつきものである。情報であれ、流行であれ、結局は他人に左右されながら、僕らは自分で判断したつもりになっている―「彼は自分自身の重心を持っておらず、具体的な経験や自己の責任に拘束されなかったから、或る考え方に心を動かされるとその考え方の論理を追って、その考え方の打出す主張の最も極端な形にまで簡単に行ってしまうのだった」(『政治的ロマン主義カール・シュミット

 ロマン主義が差しだす「人間」像に僕らは自分自身を見る思いがして、たじろぐ。他者の大袈裟な主張に心動かされ、すぐさま絶対的なものだと思いこみ、左右されてしまう。「重心」がない。自我の内部は表に曝けだされ、その場そのときに自分を刺激するスローガンに熱狂し、翻弄される。それはもはや、自己とは呼べないような、無色透明で空洞化した自我である。入りこんでくる色に染まることで、自分は何者にもなれるが、何者でもなく、心の洞穴を抱えて恐れ慄いている。

(先崎彰容「天皇と国家―坂口安吾和辻哲郎」19年6月号「新潮」)

 

 世界のルールに従っている限り、世界は自分を助けてくれる。だがしかし、この場所はあまりに居心地が悪く、ここではないどこかに自分がいるべき場所を変えてほしい…だが、どこに?…ただ死をもってこの世界を逃れるか、虫にでもなるか、今とは異なるがやはり人を束縛するルールのある世界で、意に染まぬ服従を誓うか…

 あくまで、つまり死を賭してでもルールに従うか、それとも従わず排除されるか、はたまた、従わずにいることを気取られず、姑息にも排除を逃れ嘯くか…いずれか…