アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

朝日新聞 論壇時評 寛容への祈り 「怪物」は日常の中にいる 高橋源一郎

田原(牧)は、こうも書いている。

「彼らがサディストならば、ましだ。しかし、そうではない。人としての共感を唾棄し、教養の断片を無慈悲に現実に貼り付ける『コピペ』。この乾いたゲーム感覚ともいえるバーチャル性が彼らの真髄だ。この感覚は宗教より、現代社会の病的な一面に根ざす」

だとするなら、わたしたちは、この「他者への共感」を一切排除する心性をよく知っているはずだ。「怪物」は遠くにではなく、わたしたちの近くに、いま日常的に存在している。

 それは戦時の心性ともいえる。

また別の記事。

沖縄戦 今の平和とギャップ(社会面)

「人がいっぱいいるので安心してたら、突然、砲弾が飛んできてね。一瞬にして修羅場よ。でも誰も助けない。人間の心を失ってたんでしょうか」

(中略)

 目の前に広がるのは、うっそうとしたジャングルにある大きな洞窟「ガラビガマ」だった。その中で、何人かのグループとしばらく身を潜めていたが、1週間ほどたったある日、直撃弾を受けた。

「周りを見たら木や岩場に肉片がいっぱい飛び散っててね。ある女性は、あごがなくなっているのに、叫んでいて。すごい恐怖を味わいました」

 論壇時評に戻って。

 

 自分と異なった考え方を持つ者は、「知性」を欠いた愚か者にすぎず、それ故、いくら攻撃しても構わない、という空気が広がる中で、日々「怪物」は成長し続けている。

 1762年3月、ひとりの新教徒が冤罪によって処刑された。宗教的な狂信が起こした事件だった。それを知ったヴォルテールは「人間をより憐れみ深く、より柔和にしたいとのみ念じ」不滅の『寛容論』を書いた。ヴォルテールの見た光景は、わたしたちがいま見ているそれに驚くほどよく似ている。

 本の終わり近く、彼は、どんな宗教の神でもなく、世界を創造したと彼が信じる「神」に祈りを捧げたが、250年たったいまも、その祈りはかなえられてはいない。

「われわれの虚弱な肉体を包む衣服、どれをとっても完全ではないわれわれの言語、すべて滑稽なわれわれの習慣、それぞれ不備なわれわれの法律、それぞれがばかげているわれわれの見解、われわれの目には違いがあるように思えても、あなたの目から見ればなんら変わるところない、われわれ各人の状態、それらのあいだにあるささやかな相違が、また『人間』と呼ばれる微小な存在に区別をつけているこうした一切のささやかな微妙な差が、憎悪と迫害の口火にならぬようお計らいください」

 もちろん善意の勇ましい声たちも油断して、慎重な、想像力豊かな同胞たちを「臆病者」呼ばわりして、もちろん善意から、同胞たちを非難して、できれば考えを変えてくれればと思い、そうしてくれなければ、次善の策として「臆病な」同胞たちを排除する。せざるを得ないと感じつつ、もちろん善意から、そうする。油断が、善意が、想像力の欠如が、あるいは少し長めの因果の連鎖を追う能力の欠如が、そうさせる。善意から、あくまで善意から、引き金を引く。 じつは本当に、自分たちの矜持については意識していないのかもしれない。少し長い因果の連鎖は、もちろん政治世界の未来に対してばかりでなく、自己の行動や言動、思考の内的動機に対しても、遡及的に妥当する傾向だから。

 

 

 

寛容論 (中公文庫)

寛容論 (中公文庫)