アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

「ベルリンの奇異茶店から世界へ」多和田葉子/堀江敏幸 対談(「新潮」2017.7)

 非在としてのアジア

堀江 多和田さんは、朗読会やシンポジウムなどで、よくドイツの外に出られますが、日本に帰ってくるとき、他とちがう思いはありますか。

多和田 日本に着くとすごく嬉しいんですが、でもこの日本は私が帰りたい日本とちょっと違うなという違和感も覚えます。移民の中で出身国はフィクション化されていくと言いますがまさにそれですね。私の中の日本は、もうちょっとベトナムみたい、あるいはタイみたいなんです。

堀江 つまりアジアの国々?

多和田 そうです。アジアはこういう場所なんじゃないかということをみんながもっと空想してもいいんじゃないかと思うこともあります。この場合のアジアはもちろん日本も仲間に入れてもらっているアジアのことですが。ヨーロッパ人はヨーロッパとは何かを常に自分で定義しようとしています。そういう自己申告はアジアにはなくて、極端な言い方をすれば、アジアというのはヨーロッパ人やアメリカ人から見たアジアであって、それとは全く違ったアジア像をつくることに関心のある人が日本にあまりいないように思います。

 アジアの国にいると、自分の子ども時代に対して今の自分を開く感じがします。ベルリンを歩いているときには今のベルリンをすべて吸収しよう、見ようとして歩いている。誰でもない私、幼年時代を持たない私みたいなのが歩いているって気がするのですが、インドや香港、台湾に行ったりすると、どうしても幼年時代に向かって自分が開いて、自分が重くて不透明になる。

 「幼年時代」の意味

韓国では濃厚に感じられたが、オーストリアでは感じなかったもの。

幼年時代」と「現在の日本(現在の自分自身の生活空間のイメージ)」