アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

「小説」について(1‐1「想像的なものとの出会い」モーリス・ブランショ『来るべき書物』粟津則雄訳)

あらかじめ宿命づけられたこのつつましさ、何ものも願わず何ものにも到りつくまいとするこの欲求、これらが、多くの小説を、何ひとつ非難すべき点のない書物と化し、小説というジャンルをあらゆるジャンルのなかでもっとも好ましいジャンルと化するに足りることを認めねばならぬ。この小説というジャンルは、その控え目な性質と楽しげな無力さとによって、他の諸ジャンルが本質的なものと称することで破壊しているものを忘れ去ることをつとめとしてきた。気晴らしこそ、小説の内奥の歌である。絶えず方向を変え、まるで出まかせのように進み、ある不安な動き、幸福な放心へと変形する動きを通して、いっさいの目標をのがれ去ること、これが、小説が小説たることを示す第一のもっとも確かな証拠であった。人間的時間を、或る遊びと化すること、この遊びを、いっさいの直接的な利害関心や、いっさいの有用性から解放された、本質的に表面的な、そのくせこの表面の動きを通して存在のすべてを吸い取ることの出来るような、自由な仕事と化すること、これは容易なことではない。小説が、今日このような役割を充分に果たしてはいないとしても、明らかにそれは、技術によって、人間の時間と、時間から気をまぎらせる諸手段が変えられてしまったからである。

人を動員するための方法の一つとして用いられるプロパガンダ装置と誤認され、誤配されることでブランショの云う「小説」がだれが意図するということもなく成り立つとも考えられるのだが、それは抽象的な解釈の中でのみ、つまり観念的対象としてそれを考えるときにだけ成り立つにすぎない「概念」である。というのも、政治性を剥奪された純粋なだけの物語の作用というものは考えられず、それがやっと「小説」と名づけられ、考察の対象となると同時に上記のような記述が可能となることからもわかる。ただ、非日常的に自由な境地を求める読者というものはしばしば存在するし、自由を描くことばかりではなく、反対に不自由を描くことによってそれが十分に達成されることがあることも忘れてはいけない。あらゆる微細な政治性から解放されるということはもちろん不可能だとしても、「小説」が時間からの解放、自由を企図していることがその本質的な性質だとは言うことができるし、それが「小説」とそれ以外のものとを区別する指標だと考えると分かり易かろう。