池内紀『闘う文豪とナチス・ドイツ』(中公新書)
父は若い歴史学者の報告に注釈を加えるようにして述べている。「……グロテスク。破局への誇り。自分たちがいかに悲惨であるか、彼らにはまだわかっていない。自由のお祭り騒ぎがこれからきっと起こるだっろう」(五月二十八日)
マンは性急で苛立っている。ナチス思想を否定するどんな声も聞かれない。ヒトラーによる政権掌握に手をかし、九〇パーセントをこえる国民投票で歓呼し、集団殺戮、破局、すべてを容認した。その罪を認めるどんな言葉も語られない。
ファシズム支配の終焉、囚われ状態からの解放と新しい始まりを迎えて、日記の書き手は苦い思いで書きとめなくてはならなかった。何もかもが過ぎ去ったとき、どうしてあんなことを許したのかと、他人ごとのようにして人は不思議に思っている。個人はいかに無力で、良心について考えるのがいかに難しいことであるか。ある体制を容認し、むしろ有利にはかるのは「第一級の犯罪行為」だというのに、それを認めるどのような言葉も聞こえてこないのである。
あらゆる日常的な場面であらわれる、周囲の人間の情動をモニタリングしてみれば、すぐに見つかる性質。とくに現代のような法や規律、掟によって抑圧された日常の中においての、集団的な高揚の場面にみられる共通の性質。
マンの苦々しい思い。
トーマス・マンの小説作品。