「実験的精神 小林秀雄×三木清 対談」昭和16年8月『文藝』掲載
小林 実証精神というのは、そういうものだと思うのだがね。何もある対象に向かって実証的方法を使うということが実証精神でないよ。自分が現に生きている立場、自分の特殊の立場が学問をやるとき先ず見えてなくちゃならぬ。俺は現にこういう特殊な立場に立っているんだということが学問の切掛けにならなければいけないのじゃないか。そういうふうな処が今の学者にないことが駄目なのだ。日本の今の現状というようなものをある方法で照明する。そうでないのだ。西洋人にはできないある経験を現に僕等してるわけだろう。そういう西洋人ができない経験、僕等でなければやれない経験をしているという、そういう実際の生活の切掛けから学問が起こらなければいけないのだよ。そういうものが土台になって学問が起こらなければいけない。そういうものを僕は実証主義的方法というのだよ。
三木 その通りだ。精神とか態度とかの問題だね。自分だけがぶつかっている特殊な問題がある。そういうものを究めてゆくことが学問だ。ところが学問というものは何かきまったものがあるように考えられている。それは大衆文学というものはそういうものでないかね。つまり何かある一つの気持ちなり、考え方なりにきまったものがあって、それを書いているのだね。
小林 うン、そう。
三木 ところが、純文学にはそういうきまったものがない。だから自分の仮説を実証してゆくことになる。
パスカル『パンセ』や福沢諭吉『文明論之概略』を褒め乍ら、当時の論壇、文壇を「独断」と批判する。
特殊な状況にいる自分がぶつかっている問題に対する仮説を実証していこうとすることが、ほんとうの学問であり、純文学であるという、古臭いが至極まっとうな考え。
自分自身の姿勢をつねにふりかえってみたい。