アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

全体主義の起源

 ナチの犯罪、戦争と敗北の現実は生活の構造全体を覆ったが、ドイツ人は自らにとってショッキングな衝撃をかわすさまざまな工夫をこらしていた、とアーレントは見た。「死の工場の現実性」を他の国民もしうるようなことをしたにすぎないという「たんなる可能性」に変換したり、陰謀説によって「元気づけ」たり、次の戦争ではヨーロッパ中の都市がドイツの諸都市のような目に遭うだろうと曖昧な予測を述べたり、といった現実逃避である。真実から逃れ自分を欺く自己欺瞞である。しかも、そうした逃避のなかで「最も印象的でぞっとする点は」、多くの人びとが「事実をあたかも意見にすぎないかのように扱う習慣」であった。また、彼女が出会った一人の女性は、他のことでは「ふつうに知的」であるにもかかわらず、第二次世界大戦の始まりについて、まったく誤った情報を信じていた。アーレントは次のように続けている。

  

すべてのひとは自分の意見をもつ権利があるという口実のもとにすべてのひとは無知である権利をもつのであり―また、その背後には、意見は本当は問題ではないという暗黙の想定がある。これがまさに重大であるのは、ただそれによってしばしば議論がどうしようもないものになる(ひとはどこにでも参考文献をたずさえていくわけではない)というばかりでなく、何よりもまず、平均的なドイツ人はこうした何の規制もない討論、事実に対するニヒリスティックな相対性がデモクラシーの本質であると心底信じているからである。もちろんこれはナチ体制の遺産である。

ハンナ・アーレント全体主義の起源全体主義』より)

 事実が意見であるかのように扱われ、意見への権利が無知である権利となり、その背後に意見は重要ではないという想定があるとしたら、もはや人びとの共通のよりどころ、頼りとすべきVerlaßはなくなるのではないだろうか。現実逃避や自己欺瞞は「見捨てられていること」Verlassenheitに連動する。     (矢野久美子「アーレントを読む1生きた屍」より)

 「ポストトゥルース」やさらにもっと根源にまで遡って、「ニヒリズム」の問題について論じようとしていることは明らかで、「ドイツ人」や「ナチ体制」を、「日本人」と「総動員体制」に置き換えてみれば、我々の今日の状況に、あるいはこの70年、150年の来し方に符合する。

 アレントも同じように、歯痒さと危機感とを感じていたのだろうし、矢野久美子という研究者の向いている方向も明確になる、気がする。

 例えば、日韓問題における「慰安婦問題」や「徴用工問題」についても、藤原帰一朝日新聞(2月23日朝刊)指摘している視点から考えることすらできてない人が多いだろう。