アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

友情について

とはいえ、楽園で一日をすごすこの楽しみのために、社交場の楽しみのみならず友情の楽しみまで犠牲にしたとしても、あながち私の間違いとは断定できない。自分のために生きることのできる人間は―たしかにそんなことができるのは芸術家であり、ずいぶん前から私はけっして芸術家にはなれないと確信していた―、そうする義務がある。ところが友情なるものは、自分のために生きる人間にこの義務を免除するものであり、自己を放棄することにほかならない。会話そのものも、友情の表現様式である以上、浅薄なたわごとであり、なんら獲得するに値するものをもたらしてくれない。生涯のあいだしゃべりつづけても一刻の空虚を無限にくり返すほかなにも言えないのにたいして、芸術創造という孤独な仕事における思考の歩みは深く掘りさげる方向にはたらく。たしかに苦労は多いけれど、それだけが真実の成果を得るためにわれわれが歩みを進めることのできる、唯一の閉ざされていない方向なのである。おまけに友情は、会話と同じでなんら効能がないばかりか、致命的な誤りまでひきおこす。というのも、われわれのなかで自己発展の法則が純粋に内的であるような人は、友人のそばにいると心の奥底へと旅をつづける代わりに自己の表層にとどまって退屈を感じないではいられないものだが、ひとりになるとかえって友情ゆえにその退屈な印象を訂正する仕儀となり、友人が掛けてくれたことばを思い出しては感動し、そのことばを貴重な寄与と考えてしまうからである。ところが人間というものは、外からさまざまな石をつけ加えてつくる建物ではなく、自分自身の樹液で幹や茎につぎつぎと節をつくり、そこから上層に葉叢を伸ばしてゆく樹木のような存在である。私が自分自身を偽り、実際に正真正銘の成長をとげて自分が幸せになる発展を中断してしまうのは、サン=ルーのように親切で頭のいい引っ張りだこの人物から愛され賞讃されたというので嬉しくなり、自分の内部の不分明な印象を解明するという本来の義務のために知性を働かせるのではなく、その知性を友人のことばの解明に動員してしまうときである。そんなときの私は、友のことばを自分自身にくり返し言うことによって―正確に言うなら、自分の内には生きてはいるが自分とはべつの存在、考えるという重荷をつねに委託して安心できるその存在に、私に向けて友のことばをくり返し言わせることによって―、わが友にある美点を見出そうと努めていた。その美点は、私が真にひとりで黙って追い求める美点とは異なり、ロベールや私自身や私の人生にいっそうの価値を付与してくれる美点である。そんなふうに友人が感じさせてくれる美点に浸ると、私は甘やかされてぬくぬくと孤独から守られ、友人のためなら自分自身をも犠牲にしたいという気高い心をいだくように見えるが、じつのところ自己の理想を実現することなど不可能になるのだ。娘たちのそばにいると、それとは正反対で、私の味わう歓びは、利己的なものとはいえ少なくとも欺瞞から生じたものではなかった。欺瞞というのは、われわれ人間は救いようもなく孤独であるのにそうではないと信じこませたり、ほかの人と話をしているとき、話している主体はもはや他人とは画然と区別されるわれわれ自身ではなく、他人に似せてつくられたわれわれ自身であるのに、この事実を認めるのを妨げたりするからである。娘たちと私のあいだで交わされることばは、なんら興味深いものではなく、そもそもぽつりぽつりとたまに口から出てくるだけで、それも私の長い沈黙によってたびたび途切れた。それでも娘たちが話しかけてくれるのに耳を傾けるのは、娘たちを見つめたり、そのひとりひとりの声に鮮やかな色合いの一幅の画を認めたりするのと同じほどに楽しいことだった。私は、娘たちのさえずりにうっとり聞き入った。愛するようになると、いっそうはっきり見わけたり区別したりできるものだ。小鳥の愛好家は、森のなかでそれぞれの小鳥に特有のさえずりをただちに聞き分けるが、一般の人はそれをとうてい区別できない。

プルースト失われた時を求めて4 花咲く乙女たちのかげにⅡ』吉川一義訳より)

…(「娘たちの声」があらわしているものについて)…