アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

日本の霊の警告 芥川龍之介「神神の微笑」

 この点(日本文化の「変えられなさ」)に関して、私は、社会科学、思想史、心理学などの本をたくさん読んできましたが、芥川の短編小説以上に洞察力を持ったものに出会いませんでした。この作品は「霊」が登場するような物語だからといって、片づけてはなりません。一つ一つ吟味するべきです。《我我の力と云ふのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです》。では、それはどこにあるのか。(中略)

《事によると泥烏須様自身も、この国の土人に変わるでしょう。支那や印度も変わったのです。西洋も変わらなければなりません。我我は木木の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明かりにもいます。何処にでも、また何時でもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。》

柄谷行人『日本精神分析』第2章「日本精神分析芥川龍之介「神神の微笑」」より)

  柄谷行人がここで指摘するこの洞察力は、「奉教人の死」(新潮文庫)のその他のいくつかの短編(「切支丹物」)でも確かめることができる。特に私にとっては、年来のこの宗教に対する不満であった「選民的発想」への批判的視線を、短編「おぎん」に見出し、印象深く読んだ。

 正しい信仰を守った者が救われ天国(はらいそ)に行けるのはいいとして、結果として生じる「その教えを知らぬ者」、「正しい信仰を守らなかった者」に対する優越は、俗世の成果主義の発想そのものじゃないか、と。なぜ神はそのような構造の世界を創造したのか、というのが私の年来の疑問でもあり、批判のポイントであった。

 ある宗派の勧誘の人たちの勧誘の言葉はまさに「営業トーク」で、入信するとこんないいコト(特典)があるよ。あなたは幸せな人です。わたしたちによってこんないい教えに出会えたのだから、というわけだ。さあ、愚かな異教徒や無宗教の者どもは置き去りにして、私たちと一緒に「はらいそ」へ!

 天国に行くためのウラ技情報(情報のキャッチ力)、そして十分に(何に対して?)努力した(できた)者が救われる(成果主義)。それらは「自己責任」(正しい信仰に出会えない者、正しい信仰ができない者たちは自業自得だ!)というルールの一貫した世界の構成要素。そこにあるのはまさにこの現実そのものだ。

 「おぎん」は気づくのだ、正しい教えを知らぬまま死んだ実の両親のことを、そして自分だけが「はらいそ」に行き、永遠の生をまんまと獲得することが、実は教えの真の実践にはならないということを。そして、火あぶりによって殉教することを諦め、自害して両親のいるだろう「いんへるの」へ旅立つことを決意する。救われない者を救われないままに、ただ傍に寄り添おうとする姿勢…

 ほんとうの信仰とは何か。正しい行いとは何か。そこには普遍的な理屈はなく、いわばケースバイケースとしかいいようのない「倫理」(めいたもの)しか見出せない。いささか苦しいが、理屈(からごころ)ではなく情緒(もののあはれ)によってそのつどの宗教的理屈を生きる姿勢、出たとこ勝負のパフォーマティヴなあり方こそが日本文化の本質でその「変わらなさ」の核にあるものであるということなのだろうか。