アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

連続する問題 からの着想

 だから、人々がじぶんの労働諸生産物を価値として相互に連関させるのは、これらの物象が、彼らにとって同等な種類の・人間的な・労働の単なる物象的外被として意義を持つからではない。その逆である。彼らは、彼らの相異なる種類の諸生産物を交換において価値として相互に等置することによって、彼らの相異なる諸労働を人間的労働として相互に等置する。彼らは、それを意識してはいないが、そうするのである。(マルクス資本論』第一章第四節)

…(略)…「人間的労働」を抽象するのは、思考ではなく交換行為そのものなのだ。ゆえに、交換抽象あるいは事態抽象は無意識になされる。それは、資本制が構成する無意識である。…(中略)…しかし、彼がそれをやったのは、「ブルジョア的生産様式」が「社会的生産の永遠的な自然形態」などではないということ、すなわち「社会的生産の特殊的な一種類として性格づけられ、したがってまた同時に、歴史的に性格づけられる」ということをはっきりさせるためなのである。我々が商品交換のコアにおいて「そうする」ことによって日々、抽象を成し遂げている無意識を不断に構成しているのは「商品生産」という歴史的に特殊な生産形態なのだ。そして、商品としての机が逆立ちして勝手に踊り出す以上に奇怪な、コカインの幻覚顔負けの「奇妙な幻想」を、しかも現実のただ中で無意識のうちに繰り広げているのがこの「商品生産」という形態なのである。

山城むつみ「連続する問題」第6回「シュガー」について「すばる」19年6月号)

 

 同様に考えられるのが、我々の時間認識の形態で、常に未来予測を包含しながら進行しつつある現在時という無意識の形での時間感覚が、裏切られたときにだけ錯誤として意識されるという構造も、この歴史的に特殊な、例えば高速の乗り物やデジタル機器の反応速度に対応した時間感覚の基盤として、社会の無意識を構成していると考えられないか。しかもそれぞれの人間は異なる時間を生きていながら、コミュニケーションすることによってのみ(つまりこれが上の「交換」に相当)、あるいは法的行為の構成要件として、また経済的価値を持つ労働力商品の前提としての「行為」や「集中力」の主体として、等しい基準のもと抽象化され、社会的構成体としてその都度登記されていく、という風に。