アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

モノローグとダイアローグ

 私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダイアローグによってドラマを進展させたり飛躍させたりする谷崎潤一郎の文学と較べてみると、少なくとも一つのことははっきりするように思う。それは、谷崎文学が、日本の物語の直系であるようには、川端文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグに拠るものという点で、和歌により強く繋がっているということである。しばしば小説の約束事は無視されて一見随筆風でもあるのに、あえて日記随筆の系譜に与させないのはほかでもない。さきにもふれたように、この文学は、ゆめ論述述志の文学ではなく、感覚と直観によってこの世との関係を宙に示しているからである。            (竹西寛子川端康成 人と文学」より)

 ある種の仮想的なコミュニケーションが成立させるモノローグによって思索が深まる以上に、ダイアローグが有効な場面をわたし自身経験したことがない。発想、着想を得ることに利点があり、仮想的なコミュニケーション(=モノローグ)がある論点に対する議論の解像度を高めるのに貢献するとすれば、それらの態度は相補的で、どのみち正しい物語の展開では両方が必要になり、それは単に形式上の問題以上の差異を持たない気がする。その「形式」が重要であるという立場を認めないわけではないけれど。

 そういえば、高校時代に書いた短編小説のタイトルが「ダイアローグ」だった。原稿どこかにあるんだろうか…