アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

「雛の春」古井由吉

 金曜日に例のごとくひと月遅れの『群像』、『新潮』、『文學界』、『すばる』七月号が県立図書館から届いたので早速目を通す。

 『群像』はエッセイや書評は見るべきものなくスルー。西村賢太藤澤清造の小説を紹介している「乳首を見る」と、松浦寿輝沼野充義田中純の鼎談「二〇世紀の思想・文学・芸術」は後の楽しみに取っておく。笙野頼子の「会いに行って―静流藤娘紀行」は、六月号の第一回がすこぶる面白く、これも取っておく。

今日はとりあえず、ブレイディみかこ「ブロークン・ブリテンに聞け(17)」

 『すばる』は特集の「教育が変わる 教育を変える」に読むものがいっぱいありそうなので、この一週間で処理していく予定。あとは野崎歓東京大学最終講義「ネルヴァルと夢の書物」くらいか。

 『文學界』はいまいちで、短いエッセイ鴻巣友季子村上春樹「猫を棄てる」をめぐって、小谷野敦「『魅せられたる魂』と川端康成」、武田砂鉄「時事殺し(41)」をよんだくらい。

 最後の「時事殺し」は、『新潮』の辻田真佐憲「プロパガンダから遠く離れて」と相まって、いろいろと考えさせられた。

 昨晩から何本も見た参院選がらみのYouTube動画(とくに「れいわ新撰組山本太郎の国会での質問や街頭演説でのものだが、そ)のなかで首相をはじめとする自民党国会議員の態度や、「自民党の政策を批判する立場」を批判する市民の意見から、人が知っていると自分で思っている「基本的な事実」は、その人が触れる情報の多寡や質の差、さらにはそれぞれの理解能力、さらにいえば政治的意図などが複雑な層構造を形成しており、それが前提となる限り、意見交換の際には、「意志疎通の困難/不可能」として現象化してしまうということを思い知らされた。

 そして、『新潮』では、先月号の先崎彰容「天皇と人間―坂口安吾和辻哲郎」に対する安藤礼二「公開質問状」は、ちとドキドキした。本当に先崎は安藤の著作をちゃんと読んでいないんだろうか……そして自分の日々の態度を反省した…かな?

 さいごに、古井由吉の新連作から。

 人は一夜の内にも八億のことを思うというような言葉が、どういう文脈の内か知らないが、仏典のほうにあるそうだ。八億とまではいかなくても、人は一夜に千の事を、胸の内でつぶやいているとも考えられる。すべて由なき繰り言のようでも、千にひとつ、あるいは千全体でひとつ、おのれの生涯の実相に触れているのかもしれない。ほんとうのことは、それ自体埒もない言葉の、取りとめもないつぶやき返しによってしか、表せないものなのか。本人はそれとも知らない。ましていたく老いて病めば、長年胸にしまっていたつぶやきが、眠れぬ夜にはひとりでに口からしまりもなく洩れる。聞いていると、いよいよ口説きつのる声が夜じゅう続きそうに思われたが、ふっと止んで、それきり途絶えた。やはり相手はいて、そっぽを向かれたのではないかと思った。(古井由吉「雛の春」『新潮』七月号p10)

  日々の寝つきや夜半ふと物音で目覚めてしまった時など、意識によぎるつぶやきは確かに、寝ざめのその直前までは妙に強い現実的切迫を持っているのにもかかわらず、はっきりと目覚めてみるともとより記憶にとどまらないものがほとんどで、かろうじて残っていたものも、特に言葉としては陳腐で、たしかにあった感覚の面での実感もほんの数瞬を経ると、遠い他人事に対する感想のように、見慣れた紋切り型に感じられてしまうものだ。そうして、頬に涙の跡や怒りに震えたくちびるの疲労だけがのこっているというのはあまりに物語じみているか。それでも、多くの実感を思い出すことができる描写だ。

 古井や堀江敏幸また読みたくなってきた。