アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

ミシェル・ウェルベック『ショーペンハウアーとともに』(2)

 人間にとって存在し、生み出されるあらゆるものは、直接的には人間の意識のなかに、また意識にとって存在し、生み出されているにすぎない。したがって、何よりも重要なのは、意識の性質なのであって、たいていの場合、すべては意識のうちに現れた様相にではなく、意識の性質によるのだ。…(中略)…(人間は)それぞれの個性によって可能な幸福の範囲はあらかじめ決まっている。とりわけ精神的能力の限界によって、高尚な享楽を味わう能力は決定的に定められている。…(中略)…もっとも高尚で多様で長続きする享楽は精神的享楽であり、これは主に生まれつきの能力に左右されるからだ。したがって幸福は「その人が何者か」ということ、つまり各人の個性によることは明らかだ。ところが多くの場合、ひとは運命ばかりを考慮する、…(中略)…内面が豊かなものは運命に多くを期待することもないだろう。一方、馬鹿者はいつまでたっても馬鹿者だし、愚鈍な者はたとえイスラームの天国で美しい処女たちに取り巻かれたとしても愚鈍なままだろう。(ショーペンハウアー『幸福について』第1章より)

 

…(略)…「享楽」という一般的な言葉を用いていることもだ。馬鹿者が、交響曲や精緻な論証の美をほとんど味わえないことは、たやすく納得できるだろう。だが、例がフェラチオだったら、もっと驚きではないか。しかし、これは経験によって確認できることだ。快楽の豊かさは、性的快楽の場合ですら知的なもののうちにあるし、直接に、それぞれの能力に比例する。残念なことに苦痛の場合もそうだ。

 普通人の単純な歓び(一家団欒や気取らない人間関係)に関する部分は、現在では幾ばくかの寂しさなしには読むことができないだろう。現代社会においては、そんなささやかな歓びはほとんど「失われた楽園」のように見える。官能的な享楽も、ますます稀になっている。そして、これらの幸福が減少しているのは、もちろん、「精神の高尚な享楽」が優遇されているためではない。ショーペンハウアーが罠とみなしたもの、つまり、金銭や名声(所有物と見せかけ)が優遇されているためだ。

(ミシェル・ウェルベックショーペンハウアーとともに』「第5章 人生をどう生きるか わたしたちは何者か」(澤田直訳)より)

 

 ショーペンハウアーは、人は生まれついて能力のある者とない者とに分かれており、それが一生変わることはないという前提でこの引用部分を書いているように読める。ウェルベックもまた、全面的な肯定は控えながらも、そこはあまり問題にしている節がない。ただ社会の変化の中で、我々現代人の享楽が変化したことのみを指摘するにとどめる。

 いずれにせよ、知的な能力が(それが生得的なものであれ後天的なものであれ)享楽のあり方を決めるという考え方は、私自身も若いころからなじんできたものであるし、小谷野敦もポルノグラフィーを論じる際に、知的能力の高低が、その楽しみを決定するということをどっかで述べていた(はず…)。

 ショーペンハウアーの論を敷衍して、特定の教条に囚われない享楽のスタイルが、快楽の豊かさを生み出すという事実が、この世界の自由なあり方と、そのこととつながる幸福のあり方を示唆しているように感じられる。