アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

愚かさについて(2)

 

 知性はいかに愚行と共謀するか。この問題を真剣に考えていたのは、両大戦下のウィーンに生きたロベルト・ムージルである。彼は『特性のない男』のなかで書いている。

「もし愚かさが、内側から見て、買いかぶられる才能に似ているのでなければ、もし愚かさの外観が進歩、天才、希望、改良に似ているのでなければ、誰も愚かでありたいとは思わないだろうし、そもそも愚かさは存在しないだろう。すくなくとも、愚かさと戦うことはきわめて容易であるに違いない。しかし残念なことに、愚かさには、なみはずれてひとを惹きつけるところ、ごく自然なところがある。」

四方田犬彦「愚行の賦」(1)『群像』8月号.p91‐92)

 

 ある種の政治家や企業経営者、どこの組織にでもいる人物たちのイメージが浮かんでくる。「愚かさ」という言葉の伝達内容と、語の形成的側面からくるイメージとの大きな隔たりを理解することができるか否かに、ここで言われている愚かさから逃れることができるかどうかはかかっている。

 神の恩寵と天罰、歴史の審判などという審級とは異なる視点からの「愚かさ」の定義(生成)。「歴史の天使からの誤配」とでも呼べるか…

 さらに、

「愚かさが応用するすべを知らないような重要な思想は、絶対に一つもない。愚かさはあらゆる方面にわたって柔軟であり、真理のあらゆる衣裳をまとうことができる。それに反して、真理はつねに一枚の衣裳、一つの道しかもたず、いつでも損をする。」

(同上)

  ここで有効なのは「対抗」ではなく「浸透」という戦略。しかも、中枢を持たないゲリラ的で非常に緩慢なゆるやかな「浸透」が必要とされる。