人間は日付よりも動作や笑い声を鮮明に記憶しているものです
人間は日付よりも動作や笑い声を鮮明に記憶しているものです
晩年のドゥルーズが、フーコーとの出会いを振り返りインタビューに答えて。
ところで、
ほんとうに思考するとは、もちろん誰にとっても「ただなか」で考え行動することとつながているはず。だが、さまざまな力が交差し、かならずしも理想的なかたちでそうすることができることばかりではない。むしろ、そもそもの問題の核心を見失って、いわゆる「手段の目的化」が起こっていることにも気づくことなく(つまりあさっての方向をはるかに見定めながら)、ありもしない起源へと遡行し、適切でない問題に、あるべき道行きを見失わされてしまうというのがほんとうのところではないのだろうか。以下は、哲学の問題の核心のありかについて説明したインタビューの一部。
出発することも、到着することも、もはや問題にはならなかった。問うべきは、「ただなか」では何がおこるのかということだったからです。そしてこれと同じことが物理的な運動にも当てはまる。
運動は、スポーツや生活習慣のレベルで、明らかに変わろうとしています。私たちは長いあいだエネルギー論的な運動観をよりどころにして生きてきました。つまり、支点があるとか、自分こそ運動の源泉であるといった考え方をしてきたわけです。スプリントや砲丸投げなどは、筋力と持久力の問題だし、そこにはどうしても起点やてこが関係してくる。ところが、昨今の状況を見ればわかるように、てこの支点への同化をもとにした運動の定義は次第にまれなことになってきたのです。新しいスポーツ(波乗り、ウインドサーフィン、ハンググライダーなど)は、すべて、もとからあった波に同化していくタイプのスポーツです。出発点としての起源はすたれ、いかにして軌道に乗るかということが問題になってくるのです。高波や上昇気流の柱が織りなす運動に自分を同化させるにはどうしたらいいか。筋力の起源となるのではなく、「ただなかに達する」にはどうしたらいいか。問題の核心はそこにあるのです。
(ジル・ドゥルーズ『記号と事件』「Ⅳ哲学 仲介者」p243,244)
「ただなか」で考え、工夫することで行動の妨害をするものを乗り越えることは、日々の生活の中で不可欠な習慣であるはずなのだが、やはりここでも「筋力」や「支点」の問題が頭を擡げ始める。
『朝日新聞』2017年9月19日(2017年9月19日)折々のことば 878
なにが自分の希望か知らないで、
どうして自分の行動が正しいと確信できるんだね?
東独情報部の課長が英国情報部員を尋問中、その行動の根拠となる思想を問う。「人間だれもが哲学をもっているとはかぎらんよ」と英国情報部員が返すと、課長がこう畳みかけた。希望はしかし目的とは違う。目的が正しさの根拠になればどんな手段も個人の犠牲も許容される。一足飛びに希望を語るこの性急さは危ない。小説『寒い国から帰ってきたスパイ』(宇野利泰訳)から。(鷲田清一)
「目的」と「希望」との差…
もっとシンプルにならないものか…
だが、じっさいにそうなったとしても、その単純さが思考の省力(怠惰)と見分けがたいものとなり、情報(命令)の縮減化が真理(幸福)への正しい道と短絡され、分かりやすい図式化された世界の見取り図がまかり通る。実はそのことが、次の複雑な問題を呼び寄せる問題そのものだったりするのだが。
そうやってわれわれはコンプライアンスの「ただなか」で、そこから逸れないようにそれないように、目的を希望と混同しながら、じっくりと考える時間も奪われたまま、「起源」を問う徒労も自ら巧妙に回避し、人生の残り時間を生きる。