After the first death, there is no other.
A Refusal to Mourn the Death, by Fire, of a Child in London
Never until the mankind making
Bird beast and flower
Fathering and all humbling darkness
Tells with silence the last light breaking
And the still hour
Is come of the sea tumbling in harness
And I must enter again the round
Zion of the water bead
And the synagogue of the ear of corn
Shall I let pray the shadow of a sound
Or sow my salt seed
In the least valley of sackcloth to mourn
The majesty and burning of the child’s death.
I shall not murder
The mankind of her going with a grave truth
Nor blaspheme down the stations of the breath
With any further Elegy of innocence and youth.
Deep with the first dead lies London’s daughter,
Robed in the long friends,
The grains beyond age, the dark veins of her mother,
Secret by the unmourning water
Of the riding Thames.
After the first death, there is no other.
ロンドンの子供の火災による死を悼むことを拒否して
人類を創り
鳥と獣と花の父となり
すべてのものを謙虚ならしめる暗闇が
無言のうちに 最後の光が射すのを告知し
また 静かな時間が
馬具を身につけて のたうつ海からやって来る時までは
そして 私が再び
水玉のまるいシオンの山と
麦の穂のユダヤ教会堂に入らねばならない時までは
決して私は 音の影に祈らせたり
喪服のいとも小さき谷間に
自分の塩の種を蒔いたりして
この子供の荘厳なる焼死を悼むことはしないだろう
厳粛な真実をたずさえていく彼女のような人間を
私は殺すようなことはしないだろうし
また これ以上無垢と若さのエレジーで
息の在り処の神性を
汚すこともしないだろう
最初の死者とともに ロンドンの娘は地下の深い所に横たわる
長い間の友だちを身にまとい
時代を超越した穀粒 その子の母親の暗い静脈に包まれて
流れゆくテムズ川の
悼むことのない水のほとりにひそやかに
最初の死の後に もはや他の死はない
望月健一訳
蜂飼耳「松浦理英子『最愛の子ども』」書評より 恋愛?友情?友愛?いいえ…
世の中には恋愛や友情や友愛といった言葉があって、誰でも使うことができる。けれど、人と人との関係をじっと見つめるなら、どれも恐ろしいほどに唯一のものであり、本来的には名付けることなどできはしないのだと気づく。
(中略)
…名付けることのできない関係は、名付けないまま生きればいいと、この小説の姿は強く告げている。
現実の文学的読解
漸進主義は現代医療のヒーローだ1 アトゥール・ガワンデ
医療に対して、私たちはヒーローに対するのと同じような期待を抱いている。第二次世界大戦後、ペニシリンなど山ほどの抗生物質が、それまで神の手によるしかないと思われていた細菌性疾患の災禍を克服した。新しいワクチンがポリオやジフテリア、風疹、麻疹を撃退した。外科医は心臓を開き、臓器を移植し、手術不能だった腫瘍を切除する。心臓発作を止められるようになり、がんは治せるようになった。過去、どの世代でも経験したことがないような人の病気に対する治療の変化が、この一世代のあいだに起きたのである。これはまるで、水をかければ火を消せることを発見したようなものだ。だから、それに合わせて医療システムも消防士を配置するかのように作り上げられている。医師は救世主になった。
しかし、このモデルはまったくの間違いである。病気が火事だとすれば、大半のものは消えるまでに何カ月も何年もかかるか、小さなくすぶりに抑えることができるだけである。治療には副作用があるだろうし、合併症にはもっと注意を払わなければならないだろう。慢性疾患がありきたりの病気になってきたのだが、それに対する備えは貧弱である。人の病の大半には、もっと地道なタイプの技術が必要なのである。(原井宏明訳)
世の中で起こる事柄すべてを鮮やかにコストパフォーマンスのコードで解釈してみせる手際の輩はきっと自然そのものがデジタルに出来上がっていると思い込んでいて、「経験の不足」という一世紀以上前から指摘されている教育上の病を患っているが自分では気づけない。それで、人間の身体に起こる現象も感情というフィールドでの出来事も、一挙解決が可能なゲームと見なしてしまうので、言葉で表現されるとき「ゲーム」ではなく「自然」と銘打たれている場合でさえ、訳知り顔を装い「万事先刻承知」と自ら勘違いをしていることに気づかず 、だがそんな人間が本当にいるのか。いるとすればまず思い浮かぶのは過去の自分自身であり、あと思い浮かべることができるのは自分の仲のよい友人くらいで、それ以外は想像上の人物か、断片で与えられた発言から作ったイメージ上の人物かで、「この人がそうだ」と指させる人物はいない。
「コルヴィッツ通り」多和田葉子 『新潮』2016年4月号
子どもは親のすべての表情、仕草、言葉を最終的には解釈できないままに記憶し、夜空のように肩に背負って歩いていく。P132
自らある程度年をとってからちりばめられた星と星をつなぐように記憶の断片をつないで、柄杓や熊のかたちをした星座を描いてみて、雪の中を後ろ向きに歩く自分を黙って見つめていた母親の心境はこうだったのではないか、ああだったのではないか、と思いをめぐらすこともあるだろう。