アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

一歩一歩すべてが危険から遠ざかるのに必要なのだ

 わたしは若いころから写真を撮るのが嫌いで、どこかへ出かけたときには特にそうだった。そして、ほんの十年ほど前までずっとそんなことを考えたこともなかったわけだが、自分の人生の経験から掴んだ「時間」というものの姿は、いつもくりかえしいやというほど反復され、それはまるで永遠とでも呼べそうな感覚で、しかも写真以上にとても鮮明で自分のなかにつねにその都度立ちあがってはくる。だが、注意深く観察するとそれらは必ず平穏な目覚めにごくゆっくりとつながっていて、それぞれの時間からわたしを引き離し、ときにはそれはまるでこの現実もそれら和やかな記憶の世界と直結しているものに感じられもし、そんなことはごくまれで多くは華やいだ気分もなく、ただ救いなのはよいこともわるいことも同様に沈んだ心持のなかに回収されていくことばかりということなのだ。

…ぼくは自分の人生で訪れた場所を覚えていた、完璧に、外科手術にも似た不必要な正確さで覚えていた。日付の記憶はもっと不確かだった、日付なんて重要ではないのだ、かつてあったことは永遠の出来事だといまでは知っている、でもそれは閉じられていて到達不可能な永遠なのだ。(ミシェル・ウェルベックセロトニン』p281)

  過去のわたしが当事者だったはずの素晴らしい出来事も、今のわたしにとって「関係がない」というしかない。

 思い出は断片的だ。何度か昼食の時間に車で市外へ行ったことを覚えている。彼は運転が好きで、適当な出口で高速を下りて、おいしい料理が食べられる田舎の隠れ家レストランを見つけるのが好きだった。…どこで奥さんと暮らしていたのか、どの町に住んでいたのか、わたしは知ろうともしなかった。彼がわたしの家に来たこともなかった。電話が来るのを待って、毎回会いに行った。それは灼熱のエピソード、一瞬のきらめきで、わたしにはもう何の関係もない。(ジュンパ・ラヒリ『わたしのいるところ』p100)

 今現在じぶんのしていることひとつひとつを「一歩一歩すべてが危険から遠ざかるのに必要」とほんとうはそれが偽りだと十分に知っていながら目的論的に捉え直して表現すると、それでも少し気分が上向きになる。あくまでそれは偽りだと知っているのだが。

…一日に三回、わたしたちは同じコースを散歩する。わたしは犬に愛着を感じる。そのいつも警戒を怠らない耳、敏捷な足の運び、つねに何かを求めている鼻に。わたしたちの歩く距離は彼に引っ張られてだんだん長くなる。それでもリードをもっているのはわたしだ。わたしの片思いが終わり、存在しないわたしたちの恋愛関係を慕わしく感じなくなるまで、一歩一歩すべてが危険から遠ざかるのに必要なのだ。(ジュンパ・ラヒリ『わたしのいるところ』p131)

  なんか萎える…