6月20日つづき 社会の運命
文明とは、何よりもまず、共存への意志である。人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。野蛮とは分離への傾向である。だからこそあらゆる野蛮な時代は、人間が分散していた時代、分離し敵対し合う小集団がはびこった時代であったのである。 (『大衆の反逆』神吉敬三訳)
こうした文明のなかでも「もっとも高度な共存への意志」を示したのが自由主義デモクラシーと、それにもとづく国家だと、オルテガはいう。オルテガは国家を一つの運動体としてとらえた。そしてこの運動としての国家は二つのアスペクトをもつという。「生成中の国家」と静止状態にある「既成の国家」であり、この二つはほとんど反対物だとする。いま少し敷衍していえば、国家は一方では、「人間に対して贈り物のように与えられる一つの社会形態ではなく、人間が額に汗して造り上げてゆかねばならないもの」であり、それは血統というような自然的原理から「脱却」し、「多種の血と多種の言語」を結合しつつ「自然的社会」を「超克」するところに生まれるものであり、そのかぎりで「混血的で他言語的なもの」である。「生成中の国家」とは、「内的共存」から「外的共存」へのこの変換の運動のことである。が、その過程で、運動としての国家がある種の均衡に達し、一定の静止状態に入ると、国家は「巨大な機械」に変貌する。人々はそれを「自分の生を保証してくれている」ものとして考え、それが消えていく可能性のあるものであることを忘れて、「恒久不変」の装置として受け取るだけになる。このとき国家は反対に、「社会的自発性」を吸収もしくは抹消する装置として現象しだすのである。こうして、「理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断乎として強制しようとする人間のタイプ」がはびこるようになる。
法令遵守=コンプライアンス=隷従の問題を考えるときに、「法による支配」を尊重した自発的遵守行動であるのか、それとも機械化された「恒久不変」の装置のなかで「社会的自発性」を喪失した結果の(無反省な)隷従であるのかをつねに吟味しての行動が、現代人には不可欠なものとなる。
「悪の凡庸さ」や「地獄への道は善意で敷き詰められている」問題への考察の視角として必要。