アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

俯瞰について 雑感めも

 空間的な俯瞰というものは、地図やグーグルマップを使ったり、動画で太陽系の大きさとか、銀河の広さを体感させるような映像を見ることができるので、割と把握しやすい。だれでもがイメージ化できる、とまではいわないが、これは、空間を空間的イメージに置き換えるものなので、たとえば空を飛んでいる鳥の視点から地上をながめたりする視点を例にとるとわかりやすいが、航空機やヘリコプターなどで実際に上空へ行き、カメラで撮影し、それを見さえすれば、自分でも想像の中で空中から見たらこんな風、と仮想的イメージを自分の中に創り易いのだ。

 だが、時間となると、空間とはうってかわって、そもそも運動として実在しているということもはっきり言えないし、むしろ記憶や痕跡の各要素の関係性における、知覚上の一つの論理とでもいうべきものなので、空間的イメージになじまない。

 歴史という論理的な構造が、かろうじて時間のイメージ化に成功しているといえばいえるかもしれないが、それもそもそも定義は一定していないし、ある一つの歴史観からながめられる過去・現在のつながりは、時間的要素の関係性の一つのパターンとしか言えないものだ。

 となると、やはり空間的イメージで把握しづらく、多くの人にとって、「時代の流れの中で自己を位置づける」であったり、「時間的存在としての自己をとりあえず把握する」という作業は困難を極めるものとなる。

 それに加えて把握困難なのは、親密な人間関係を超える社会関係であり、目の前にいない人たちとの関係を、自分の社会的経済的地位で、つまり「肩書き」で把握してしまうのは、思考のエネルギーの省力化であり、複雑性の縮減化であり、まあ、思考に対して怠惰な態度をとるのが通常の人たちの心理からすれば、よくわかる行動である。

 こちらも、やはり、空間的イメージに変換しようとしても、変てこな図でしか表現できないのではないか。これは、人間関係の「一期一会」性、「そのつど」性に虚心に立ち返ってみれば当然のことで、自分なりのイメージシステムを構築することでしか、その精緻な把握は不可能ともいえるだろう。