矛盾がないというのは感情の満足ですね。岡潔
最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない二つの命題をともに仮定しても、それが矛盾しないという証明が出たのです。だからそういう実例をもったわけなんですね。それはどういうことかというと、数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学だとはいえないということがはじめてわかったのです。じっさい考えてみれば、矛盾がないというのは感情の満足ですね。人には知情意と感覚がありますけれども、感覚はしばらく省いておいて、心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。だから、その意味で、知とか意とかがどう主張したって、その主張に折れたって、情が同調しなかったら、人はほんとうにそうだとは思えませんね。そういう意味で私は情が中心だといったのです。そのことは、数学のような知性のもっとも端的なものについてだっていえることで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足をあたえるためには、知性がどんなにこの二つの仮定には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力なんです。(『人間の建設』岡潔×小林秀雄p39,40)
無矛盾性と感情との関係について
「納得できる」というのはどういう状態のことなのかという問題
この岡潔のいう「感情」はいったい誰のものなのかという疑問が湧いてきます。
その問いに対する解答へ至るためのヒント(になりそうな考え方)
…わたしの感覚は、わたしに知覚される風景との対応関係を集めた辞書のようなもので、その壮大な辞書に基づき、わたしは、わたしの感覚を自己判断する、かのように思えるのです。知覚された私の風景が原因となって、感覚・感情をもたらす時、逆に感覚・感情は原因を指し示す。これがその、対応関係の意味するところです。
このことは、感覚・感情が、最終的なタグ(単なる札)となっていること、タグをもたらすまでの、わたしの様々な微妙な感覚も、最終的なタグの原因とみなされること、を意味します。おばあさんの方に歩いていくトレホを見て、あれ、何をするつもりなんだ、大丈夫か、危害を加えないよな、おや、まさか、逆にいい人だった、と続く心の細かな動きや、これに伴う動悸や安堵、それらが最終的に「安堵感・余裕」とタグづけされた時、逆に「安堵感・余裕」によって説明されるのは、そこに至る現象の全体、ということになるのです。(郡司ペギオ幸夫『天然知能』2サワロサボテン)
これは「感情」の生成プロセスについての説明で、郡司の主張する一・五人称的知性以前の、主観的感覚に基礎づけられた一人称的意識が、三人称化されるプロセスの説明です。
ただこれは、ここで岡がいう意味での「感情」ではない、というネガティブな例となっています。
また、
共鳴、親愛、納得、熱狂、うれしさ、驚嘆、ありがたさ、勇気、救い、融和、同類、不思議などと、いろいろの言葉を案じてみましたけど、どれも皆、気にいりません。重ねて、語彙の貧弱を、くるしく思ひます。(太宰治『風の便り』佐竹昭広「意味変化について」引用)
太宰の云うこの名付けがたい「感情」、どのような語によっても表現し切れたという感じのしない「感情」と上の岡の云う「感情」とが関連している予感があるのですが、まだ十分に思考が展開されていません。
これらが最近考えている「特異性」の問題と関連している予感がするのです。
つづく