「コルヴィッツ通り」多和田葉子
・・・子供は親のすべての表情、仕草、言葉を最終的には解釈できないままに記憶し、夜空のように肩に背負って歩いていく。
たしかにそうだと思う。
自らある程度年をとってからちりばめられた星と星をつなぐように記憶の断片をつないで、柄杓や熊のかたちをした星座を描いてみて、雪の中を後ろ向きに歩く自分を黙って見つめていた母親の心境はこうだったのではないか、ああだったのではないか、と思いをめぐらすこともあるだろう。
何かで読んだ、こうの史代のエッセイで、「原爆投下から25年後の広島で生を受けた私を周囲の人たちはどのような気持ちでこの世に迎えたのだろう」と想像する一節があったが、広島や福島でなくても、かけがえのない死者たちと別れ、その代わりに?生まれてきた新しいメンバーに対してどのような感情を、当の身近な人たちの死を経験してきた人たちが抱いていたのか、こうだったのではないか、ああだったのではないか、と思いをめぐらすこともあるだろう。