アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

「至高性」

 バタイユは、〈消費〉の観念の徹底化として、「至高性 la souveraineté」というコンセプトに到達する。至高性とは、〈あらゆる効用と有用性の彼方にある自由の領域〉であり、「他の何ものの手段でもなく、それ自体として直接に充溢であり歓びであるような領域」である。 …(中略)…

 バタイユによれば、労働者はその得た賃金でワインを一杯飲むが、それは「元気や体力を回復するため」でもあろうけれど、同時に、そうした「必要に迫られた不可避性」を「逃れようとする希望」をこめてのことでもある。そこには「ある種の味わいという要素」、「ある奇跡的な要素」が混入している。そこに現れるのが、至高性である。(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』79頁)

…(中略)…

バタイユは]、他の何ものの手段でもなく、測られず換算されない生の直接的な歓びの一つの極限のかたちをみている。けれども、この生の「奇跡的な要素」、「われわれの心をうっとりとさせる要素」は、どんな大仕掛な快楽や幸福の装置も必要としないものであり、どんな自然や他者からの収奪も解体も必要とすることのないものである。(見田宗介現代社会の理論』電子書籍版)

 

 今この記事を書きながら、書斎の窓越しに、雨に打たれて震える樹々の緑を見ている。その美しさを無償で享受できることの歓びを上記の読書経験が深めてくれている。今晩飲むワインも、いつもより美味しいことだろう。(内的自己対話-川の畔のささめごと「一杯のワインが与える奇跡的な感覚、あるいは朝の陽光がもたらす世界の無償の美しさについて ― ジョルジュ・バタイユ『至高性 呪われた部分』に至る読書記録」2019-09-08 16:08:35 | 読游摘録より)

  まさに、昨日話題にしたバッハにこそふさわしい「至高性」という表現を、バタイユは「太陽の輝き」や「一杯のワイン」、筆者は「風景の視覚的経験」に見出している。これら享楽の対象は、私の周囲に無数に存在し、享受されることを待っている。他人の価値観に縛られず、自分で自分の享楽のスタイルを生み出し、それを生きることが、自由という表現そのものの指す事態である。だが、自由は束縛からの解放ではない。私にはただ享楽の対象を無制限に、なにものへの反動としてでもなく享楽することが求められる。