アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

「名付けられないもの」として父祖たちが持っていた敬虔さを失った“我ら”

 一般に、人が異教を排撃するのは、自らの宗教を熱烈に信じるからだと考えられるが、実は、そのような所ではむしろ、異教に対して寛容である。異教を排撃するのは、自らの宗教を信じていない時である。トッドの考えでは、フランスに反イスラム主義が生まれたのは、カトリックが衰退してしまったからだ。私は自分の信じていた宗教を冒涜する、ゆえに、他人の宗教を冒涜する権利と義務がある、と彼らは考える。

(書評)『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』 エマニュエル・トッド〈著〉 〈評〉柄谷行人(哲学者)

愛することを永遠にやめれば弱みがなくなり、地球を支配できるだけの権力を手に入れることができる

 そんなある日、ひとりのセールスマンがアルベリヒの家を訪れた。愛することを永遠にやめれば弱みがなくなり、地球を支配できるだけの権力を手に入れることができる、というのである。黄金に輝く権力があれば女性などいくらでも寄ってきますよ、サービス品みたいなものです。女性そのものを求めるのは、はっきり言って損です。アルベリヒは契約を結ぶことにした。多和田葉子 「リヒャルト・ワーグナー通り」

 

 今はもうこの世に存在しない人たちが、閉店中にひそかに集まってきて、思い出話をしている。もうパスタで空腹を満たす必要もないし、ワインで喉を潤す必要もない。生きていた頃のことを思い出すことだけが彼らの仕事である。何事もなかったように思える日のことも思い出すことはできるのだろうか。落ち葉を踏みしめて歩いていたら、とめてある自動車の下にもぐりこんだ猫と目が合ったという以外にはこれといった事件はなかった秋の日のことでも五十年後に思い出すことができるのだろうか。それとも震撼させられたオペラの舞台のことばかり覚えていて、日常の記憶は消えているんだろうか。多和田葉子 「リヒャルト・ワーグナー通り」

 

 

八月六日無数の惨めさに向き合う

黙示録的意味や歴史的意義は必要としない人たちと

 

婉曲な表現をするのはよそう。その日の午後へ向かう。躰は大火傷でケロイド、なけなしの平穏である隣人たちと垂れ下がる皮膚を見せ合い言葉もない。何より自ら産み育ててきた子どもが生焼けで泣く力もなく蹲る。炭化した人形になった生み育て慈しんだ子どもたち。柔らかい頬や手足を、お腹やお尻を撫で慈しんだ平穏と希望。なけなしの希望を目の前に蹂躙されたその惨めさ。勿論激痛を抱え、今夜死ぬ身も顧みず、何より意気阻喪させるものは己の肉体的災厄ではなく子供の苦しみと残された炭。起こっている事柄の全体像や意味など必要とせず、ただ昨日という日に戻りたいと願う、その惨めさ。を、だれが贖うか。なにに贖えるか。

古井由吉 半自叙伝

2015年7月7日朝日新聞 随筆と小説の間で 古井由吉さんの短編集「雨の裾」

(略)

 新しさを求めて技術革新が進む社会にあらがうように、自身に積もる「時」を語る。

(中略)

 語られる時間は自在に行き来し、空間も現代、過去、未来が重なり合う。

 「よく知った道でも、ふと自分はいつ、どこを歩いているのか、と思うことがある。少年の頃に未来都市というのが漫画にあったけれど、それにもう似ているんだね、現代が」

 作中に印象的な場面がある。都市を歩きながら、自分の若い頃の影に追い抜かれる男の話だ。

 「これは実感です。青年、少年の体験がよみがえることもある。老いというのは一面、若返ることでもあるんですよ」

 時間を描くことは久しいテーマでもある。

 高度経済成長期の頃から、時の経過がとらえにくくなったと感じている。例えば仕事は新奇さを求められ、体験の積み上げでは通じなくなってきた。朽ちていく木造家屋ではなく、時の経過を拒むようなビルも増えていった。

 文章における時間の表現もまた、難しくなっていった。かつての文語文は文章の息が長く、その中に時間の移ろいを織り込んでいた。「今の口語文は言葉が切れ切れでしょう。みんな次の文章につなげるときに、はたと困っているんじゃないでしょうか」

 現代は時の蓄積を忘れ、病老死をも遠ざける。人間性が損なわれているように感じているという。

 「文明に行き詰まった時、人は何を求めるのか。(作品が)その時までのつなぎになってくれればいい。最後に、長編をやるのかなと思っています。それも随筆ともつかぬものになるんじゃないでしょうか」(高津祐典)

 

2015年7月7日 漱石の「真面目」から考える文学 大江さん×古井さん対談

(略)

 古井さんは「真面目さには、際どいところで生の欲求に走るものもある」と答え、「生の欲求が当たり前ではなく、強い意志で追い求める。それが戦後、現代文学の底流に、どれほど残っているか」と返した。 

 話題は、近代化の危機としての核問題に及んだ。人間が監視・管理しなければならないものが増えた現代。古井さんは「その緊張に耐えられるか。表を歩いているだけで、きつい緊張を感じる」と話した。

(略)

(高津祐典)

 

 
ゲスト古井由吉富岡幸一郎西部邁ゼミナール 2015年3月15日放送 - YouTube

 

 

半自叙伝

半自叙伝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関係の絶対性

関係の絶対性において、政治にかかわることができない一般庶民に加害性を押し付けることは、たとえば無差別空爆や大量虐殺などの行為に対する正当性を生み出す視点なのではないか。私たちや、あるいは私たちの子どもたちに、アフリカの貧困に対する責任があるか?シリアで起こる市民の迫害に対する責任があるか?これらの問いは、どのような生産的な意味を持つか。地球の裏側から届く、消費用映像へのありきたりな反応なのであるか。助けずにはおれない、と感じることと、他人事として放っておくことを糾弾することとは、実は心理の経済として繋がっているとも考えられる。惻隠の情をうまく利用する程度の狡知は、この世界に満ちているはずなのだが。

最近読了したものから

日本語が亡びるとき(増補版)』水村美苗

増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫)

増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫)

 

 ◎再々読。読むたびに、とくに読書の時の「書き言葉としての日本語」自体に対する感覚や、読書という行為そのものに対する感覚が変化してきた気がする。しかもそれは必ずしもポジティヴな変化ではない気がする。

 とはいいつつも、以下の翻訳小説に少しだけ勇気づけられる気もする。

 

帰ってきたヒトラーティムール・ヴェルメシュ

帰ってきたヒトラー 上

帰ってきたヒトラー 上

 

 

 

帰ってきたヒトラー 下

帰ってきたヒトラー 下

 

◎人間ヒトラーへの共感を感じることは、タブーではない。…が!…

歴史的に彼本人に帰責出来る事柄を十分知った上での共感でなければならない。

そのうえで、正気のまま、共感可能か?

 

ナチスと精神分析官

ナチスと精神分析官

 

 

 

 

『ヒア・アンド・ナウ(J.M.クッツェー/P.オースター往復書簡)』

ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011

ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011

 

◎要再読。二人の作品を片っ端から読みたくなった。とくにクッツェーのものは原書で。

 

 『HHhH プラハ1942』ローラン・ビネ

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

 

 ◎要再読。失われた歴史の時空に想像力で接近し、創造していく行為が小説を書き、読むということなのか。ローラン・ビネと一緒に考える。そこで創造されたものが、実際に過去において「無かった」とはどういうことか。記憶すべきもののなかには、無数の記憶できないもの、知りえないものの海が広がり、島嶼としての記憶可能な領域が歴史の時空の中に点在している。それでもあまりに平板なイメージに過ぎる。

 

「想定外のことが起こらない限り、絶対に安全です」・・・多和田葉子「彼岸」

 

今日かもしれない、明日かもしれない、百年後かもしれない…というのは、正直キツイ…

それならいっそ、「再稼働」グループと「想定外に備える」グループの落としどころを探り、「支援計画を整備しよう」と言われたとしても、「再稼働」への表立っての批判は期せずして、「想定外は起こらない」=「そうそう起こらない」=「千年に一度しか起こらない」グループの利害とぐるっと回って(逆に…)一致してしまう。

議論の立て方が、あまりに単純すぎるではないか。

どの細部を見逃してはならないか。そのことへの配慮が、熟慮⇨熟議の要請へとつながっていくとも、ある側面、考えられる。

ただ、「想定外のことが起こらない限り、絶対に安全です」ので、ぎゃくにぐるっと

まわって…畏ろしい…

 

献灯使

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