アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

人間が抱く嫉妬のなかで最も暗くて陰湿なのは、対象となる人間の正しさや立派さに対してなの。 宮本輝

◇ 心ある大人たちに育てられた戦災孤児は成長して、長く住み込みで働いた先の老婦人にこう言われる。人は、正しいことをまっすぐにできる人のその“無垢”に嫉妬することがある。その伸びやかな光に照らされると、意識にいつも屈折を強いてきた自身の境遇ないしは悲しき性に、思いがつい向かうから。小説「骸骨ビルの庭」より。

(2016.8.23朝日新聞朝刊「折々のことば」鷲田清一

 

がんばれ、といわれて育った。ぎりぎりまでがんばれ。

 努力もしないうちから自分には何もできないと思っている人のことを生ぬるいと思ってしまう。何もできなくてもそれでいいと思っていて、いざというときには誰かが助けてくれると思っていて。その白砂糖みたいな甘さに身震いが出る。そういう人たちの引っかかりのなさが不気味だった。かっこいいとか、きれいだとか、できるとか、速いとか、うまいとか、いろんなほめ言葉を口にするときに、どこにも引っかからないらしい。その称賛を受ける人は、それだけのことを積み重ねてきている。悔しいとは思わないのだろうか。屈託のないほめ言葉を聞くと、無神経な手で首筋を撫でられるような心地がした。

宮下奈都『終わらない歌』より

 人は安易に他人の美点を褒めるが、自分がそれと同じことをやろうとは思わない。実際に自分ではやらずに「やれないし、やらなくてよい」と思いこんでいる人がいて、そういう人の言葉が気持ち悪い。「正しくて立派なこと」とはそれを行動として「できる」ということであって、他人の「正しくて立派なこと」を安易に口先だけで、肯定も否定もするな!ということ。嫉妬も称賛もするな、ということ。と考えますか。

 

 

 

 

 

 

 

行動を起こさないわれらの仲間たち

人類は目に見えないものを見る能力を持ち、歴史に対する想像力、伝統に対する創造力などはその最たるもので、歴史意識の欠如とは、個々の歴史的知識をあまり多くは持っていないということではなく、無限に詳細な探究を可能とする時空や事象の地平が、そのつどそのつどの過去や現在や未来に存在しているということを、決して到達できないイデアとして持ちながら、そこに到達しようと個々の歴史について知ろうとする営みを放棄するということである。いま目の前にある、自分の生活を構成する事物の来歴に対する歴史意識の欠如が、未来世代へと働きかける自らの行動、思考を取りやめさせ、目先の利益や、がなり立てる大声に対する追従を生み出す。

 

イデアとは、プラトン哲学の中心概念で、理性によってのみ認識される実在。感覚的世界の個物の本質・原型。また価値判断の基準となる、永遠不変の価値。近世以降、観念また理念の意となる。実在とは、観念、想像、幻覚など主観的なものに対し、客観的に存在するもの、またはその在り方。HatenaKeywordより

 

「名付けられないもの」として父祖たちが持っていた敬虔さを失った“我ら”

 一般に、人が異教を排撃するのは、自らの宗教を熱烈に信じるからだと考えられるが、実は、そのような所ではむしろ、異教に対して寛容である。異教を排撃するのは、自らの宗教を信じていない時である。トッドの考えでは、フランスに反イスラム主義が生まれたのは、カトリックが衰退してしまったからだ。私は自分の信じていた宗教を冒涜する、ゆえに、他人の宗教を冒涜する権利と義務がある、と彼らは考える。

(書評)『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』 エマニュエル・トッド〈著〉 〈評〉柄谷行人(哲学者)

愛することを永遠にやめれば弱みがなくなり、地球を支配できるだけの権力を手に入れることができる

 そんなある日、ひとりのセールスマンがアルベリヒの家を訪れた。愛することを永遠にやめれば弱みがなくなり、地球を支配できるだけの権力を手に入れることができる、というのである。黄金に輝く権力があれば女性などいくらでも寄ってきますよ、サービス品みたいなものです。女性そのものを求めるのは、はっきり言って損です。アルベリヒは契約を結ぶことにした。多和田葉子 「リヒャルト・ワーグナー通り」

 

 今はもうこの世に存在しない人たちが、閉店中にひそかに集まってきて、思い出話をしている。もうパスタで空腹を満たす必要もないし、ワインで喉を潤す必要もない。生きていた頃のことを思い出すことだけが彼らの仕事である。何事もなかったように思える日のことも思い出すことはできるのだろうか。落ち葉を踏みしめて歩いていたら、とめてある自動車の下にもぐりこんだ猫と目が合ったという以外にはこれといった事件はなかった秋の日のことでも五十年後に思い出すことができるのだろうか。それとも震撼させられたオペラの舞台のことばかり覚えていて、日常の記憶は消えているんだろうか。多和田葉子 「リヒャルト・ワーグナー通り」

 

 

八月六日無数の惨めさに向き合う

黙示録的意味や歴史的意義は必要としない人たちと

 

婉曲な表現をするのはよそう。その日の午後へ向かう。躰は大火傷でケロイド、なけなしの平穏である隣人たちと垂れ下がる皮膚を見せ合い言葉もない。何より自ら産み育ててきた子どもが生焼けで泣く力もなく蹲る。炭化した人形になった生み育て慈しんだ子どもたち。柔らかい頬や手足を、お腹やお尻を撫で慈しんだ平穏と希望。なけなしの希望を目の前に蹂躙されたその惨めさ。勿論激痛を抱え、今夜死ぬ身も顧みず、何より意気阻喪させるものは己の肉体的災厄ではなく子供の苦しみと残された炭。起こっている事柄の全体像や意味など必要とせず、ただ昨日という日に戻りたいと願う、その惨めさ。を、だれが贖うか。なにに贖えるか。

古井由吉 半自叙伝

2015年7月7日朝日新聞 随筆と小説の間で 古井由吉さんの短編集「雨の裾」

(略)

 新しさを求めて技術革新が進む社会にあらがうように、自身に積もる「時」を語る。

(中略)

 語られる時間は自在に行き来し、空間も現代、過去、未来が重なり合う。

 「よく知った道でも、ふと自分はいつ、どこを歩いているのか、と思うことがある。少年の頃に未来都市というのが漫画にあったけれど、それにもう似ているんだね、現代が」

 作中に印象的な場面がある。都市を歩きながら、自分の若い頃の影に追い抜かれる男の話だ。

 「これは実感です。青年、少年の体験がよみがえることもある。老いというのは一面、若返ることでもあるんですよ」

 時間を描くことは久しいテーマでもある。

 高度経済成長期の頃から、時の経過がとらえにくくなったと感じている。例えば仕事は新奇さを求められ、体験の積み上げでは通じなくなってきた。朽ちていく木造家屋ではなく、時の経過を拒むようなビルも増えていった。

 文章における時間の表現もまた、難しくなっていった。かつての文語文は文章の息が長く、その中に時間の移ろいを織り込んでいた。「今の口語文は言葉が切れ切れでしょう。みんな次の文章につなげるときに、はたと困っているんじゃないでしょうか」

 現代は時の蓄積を忘れ、病老死をも遠ざける。人間性が損なわれているように感じているという。

 「文明に行き詰まった時、人は何を求めるのか。(作品が)その時までのつなぎになってくれればいい。最後に、長編をやるのかなと思っています。それも随筆ともつかぬものになるんじゃないでしょうか」(高津祐典)

 

2015年7月7日 漱石の「真面目」から考える文学 大江さん×古井さん対談

(略)

 古井さんは「真面目さには、際どいところで生の欲求に走るものもある」と答え、「生の欲求が当たり前ではなく、強い意志で追い求める。それが戦後、現代文学の底流に、どれほど残っているか」と返した。 

 話題は、近代化の危機としての核問題に及んだ。人間が監視・管理しなければならないものが増えた現代。古井さんは「その緊張に耐えられるか。表を歩いているだけで、きつい緊張を感じる」と話した。

(略)

(高津祐典)

 

 
ゲスト古井由吉富岡幸一郎西部邁ゼミナール 2015年3月15日放送 - YouTube

 

 

半自叙伝

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