アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

カルペンティエル『失われた足跡』1

…穀倉でもあり、泉でもあり、また通路でもあるこの河にあっては、人間の精神的葛藤など意味を持たず、個人的な逼迫など一顧だにされなかった。鉄道も街道も遠く離れていた。ここでは人は流れにのって、あるいはさからって航行していたが、いずれの場合にも、不易のリズムに調子を合わせることが必要であった。ここでは人間の旅が〈雨の掟〉によって支配されていたのだ。私は天職によってメトロノームに、そして生業のためにストップウォッチに縛られている、偏執狂的な時間の計測者である自分が、数日前から時間に心をうばわれるのをやめ、太陽の高度を食欲と眠気に関連づけているのに気づいた。そして腕時計が全然まかれていないのを発見したとき、わたしは時間のない大平原にむかって、ただ一人高笑いをした。その周辺からウズラがの群れが飛びたった。〈海牛号〉の船長が、乗船するようにとわたしを呼んだが、その大きな、長い声は船歌のように響き、いたるところにカラスの鳴き声をわきあがらせていた。

(『失われた足跡』カルペンティエル牛島信明訳.岩波文庫p178~179より)

 

 自然の波長にシンクロしていくことによって、ふだん社会生活の中で見失っている人間自身の「圧倒的な非力さ」と、それと裏腹な自然の巨大さ、人間に対するその力の圧倒的な優越。そこに対立関係はなく、どのみち「不易のリズム」に沿って航行するしかないのだ。この部分を皮切りにまずは「時間」という視点からしばらくこの作品を読み解いていく。

 

 あと関連して、その「圧倒的な非力さ」から目をそらすために、杖のように自分が倚りかかっている宗教的な表象。それのもつ意味を精確に把握していく作業が、ふだん断片的にしか行われていないことに、フロイトの「ある錯覚の未来」(フロイト全集20)によって思い知らされた。あるいは、運命や占いというさらに根拠希薄なオカルティズムへの心理的依存も自覚せられた。いや、もちろんずいぶん前から自覚はしているが、そのプロセスも含め、こちらも繊細に考察していきたい。

                                    つづく

 

被知覚態、変様態、そして概念

旅、そして「動きすぎてはいけない」ヒント

 たとえ帰ってくるつもりでも、わたしたちが家から離れれば、大リトルネロが湧きあがる。というのも、わたしたちがいつか帰るとき、それがわたしたちだとわかる者は、もはや誰もいなくなっているからだ。(『哲学とは何か』ドゥルーズガタリp272)

加えて、

…だれかがソクラテスに、

「あの人は旅をしてきたくせに、全然よくなっていないのです。」

というと、

「それはそうですよ。だって、自分をいっしょに運んでいったのですからね」

と返事が返ってきたという。…われわれは自分の鎖を、いっしょに引きずっている。つまり、完全な自由ではないのだ。自分が残してきたもののほうに、いまだに視線を向けているのであって、そのことで頭がいっぱいになっている。         (『エセー』モンテーニュⅠの三十八)

 『群像』2016年4月号「対談:モンテーニュという生き方」宮下志朗の発言

 

意味のない無意味 メモ

 旅行というのは何かしゃべりに出かけて行って、戻ってみれば今度はこっちでまたしゃべるといった、そんなものです。行ったきり戻ってこないとか、向こうで小屋でも作るなら別ですが。だから私としては旅行には向かないし、生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない。驚いたことにトインビーはこう述べました―「遊牧民とは動かない者たちのことである。彼らは立ち去ることを拒むからこそ、遊牧民になるのだ」と。(ジル・ドゥルーズ『記号と事件』p277より)

 「航海から戻って来ればもはやそれは旅立った時のその人ではない」

非常に多くの示唆に富む「身体の多重性」 中井久夫集8『統合失調症とトラウマ』所収

 中井久夫は人間の身体を「重層体としての身体」(p169)として、28の視点から規定しているが、さいごには「まだまだあるぞと言われそうです」とさらに多層的に人間の身体を見ることができるということを示唆しています。

 その中の「社会的身体」について。「ファントム空間」についての具体例と説明に続いて、

 それから表現する身体ですが、舞踏もあり、身体言語、例えば嫌な時は嘔吐し、早く忘れたいことがあると下痢をするというところまでの幅があります。身ぶり手ぶりというものもあります。技術伝達においては身ぶり手ぶりが大切だそうです。相手の言葉がよくできて相手の発想に立ってしまう人は技術移転ができない。日本語しかできないのもやはり駄目ですが、ことばがあまり上手く喋れないが相手に伝達したいという熱意が非常にあって、身ぶり手ぶりを交えながら相手に伝えようとする人が一番効率よく技術を伝達するということを聞きました。私を含めて翻訳家は、外国語がペラペラの人でなく、あまり喋れない人が多いようです。翻訳家は頭の中で身ぶり手ぶりをやっているのです。技術移転と同じです。

 キーワードは「熱意」。数日前、同僚の英語教師が廊下での立ち話で「どうも自分はストレスを発散するのが器用に得意でいけない。ストレスが全くたまらない。何か仕事で立派な収穫物を上げる者は、日々のストレスを十分にため、有用な仕事に集中してストレスのパワーを発揮しているものだろう」と言っていた。誠に器用貧乏とはこのことだろう。わたしも同意見である。会話が得意な者や人間関係の中での立ちまわりの上手な者、鬱憤を溜めずその都度自分にとって有用であり且つ周囲にその言動を心地よく受け容れられる者には、例えば上の例に見られるような翻訳や何らかの商談やプロジェクトの成功によって、他所目には表面化していない自分の能力を可視化し誇示し、地位や尊敬を勝ち取る動機、熱意も生まれはしない。同じだけの能力や熱量を潜在的には持っていたとしても、むしろある意味で不器用な者の方が人目に立つ収穫物を得る確率が高まるという気がしないでもない。また、それが、自分にはそうできないというやっかみであるという気もしないではない。あるいは当の「ストレスがたまらない」との言も、ストレスの存在の証拠なのかもしれない。

備忘 「統合失調症」についての個人的コメント 中井久夫集8『統合失調症とトラウマ』

p71

 楽観主義的な医師の患者のほうが悲観主義的な医師の患者よりも治療率が高いとあったと記憶している。

 

p72

 患者の過敏さ、傷つきやすさはつとに知られているのに、そのことをどれだけ過小評価してきただろうか。残っているのは外傷症状だけというケースが決して少なくない。「ドアがしまりカギがかかる時の音」の外傷性フラッシュバックはほんの一例にすぎない。これは医療関係者とともに家族、公衆、政治の課題でもある。

 

メモ 斎藤環「広がり、根付くオープンダイアローグ」(1903現代思想)

 そもそも日本においてのオープンダイアローグの受け取られ方は、世界的に見てもかなり特異なのです。いまのところ世界的な動向としては、関心を持つ人のかなりの部分がヨガなどの代替医療ニューエイジ系に関心のある方たちです。日本では例外的にアカデミアや精神科医の関心が高い。

 

 なぜ「就労」の説得が有害なのか。それはこの種の説得が、常に本人の「意志と責任」についての批判にしかならないからです。働かない人への説得ないし叱咤激励は、つまるところ「働かないのはお前の意志が弱い(甘えている)」か「働かざる者食うべからず(自己責任)」のいずれかに帰結します。その理屈は、実は当事者自身が一番わかっている。実際ほとんどのひきこもり当事者は、抜け出すべきあがきながら、同型の批判を自分自身の繰り返し向けています。しかし批判で動機付けられる人は、それだけの余裕と健康度がある人だけです。自身を批判し尽くして失敗してきた当事者を同じ理屈で責めても、批判者への不信感とともに自尊感情の毀損が生ずるだけです。これが「説得の有害性」のからくりです。

 

…「どうしたら自分の価値を取り戻せるかを一緒に考えていきましょう」くらいのことはかろうじて言えるかもしれません。…

 

日本の霊の警告 芥川龍之介「神神の微笑」

 この点(日本文化の「変えられなさ」)に関して、私は、社会科学、思想史、心理学などの本をたくさん読んできましたが、芥川の短編小説以上に洞察力を持ったものに出会いませんでした。この作品は「霊」が登場するような物語だからといって、片づけてはなりません。一つ一つ吟味するべきです。《我我の力と云ふのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです》。では、それはどこにあるのか。(中略)

《事によると泥烏須様自身も、この国の土人に変わるでしょう。支那や印度も変わったのです。西洋も変わらなければなりません。我我は木木の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明かりにもいます。何処にでも、また何時でもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。》

柄谷行人『日本精神分析』第2章「日本精神分析芥川龍之介「神神の微笑」」より)

  柄谷行人がここで指摘するこの洞察力は、「奉教人の死」(新潮文庫)のその他のいくつかの短編(「切支丹物」)でも確かめることができる。特に私にとっては、年来のこの宗教に対する不満であった「選民的発想」への批判的視線を、短編「おぎん」に見出し、印象深く読んだ。

 正しい信仰を守った者が救われ天国(はらいそ)に行けるのはいいとして、結果として生じる「その教えを知らぬ者」、「正しい信仰を守らなかった者」に対する優越は、俗世の成果主義の発想そのものじゃないか、と。なぜ神はそのような構造の世界を創造したのか、というのが私の年来の疑問でもあり、批判のポイントであった。

 ある宗派の勧誘の人たちの勧誘の言葉はまさに「営業トーク」で、入信するとこんないいコト(特典)があるよ。あなたは幸せな人です。わたしたちによってこんないい教えに出会えたのだから、というわけだ。さあ、愚かな異教徒や無宗教の者どもは置き去りにして、私たちと一緒に「はらいそ」へ!

 天国に行くためのウラ技情報(情報のキャッチ力)、そして十分に(何に対して?)努力した(できた)者が救われる(成果主義)。それらは「自己責任」(正しい信仰に出会えない者、正しい信仰ができない者たちは自業自得だ!)というルールの一貫した世界の構成要素。そこにあるのはまさにこの現実そのものだ。

 「おぎん」は気づくのだ、正しい教えを知らぬまま死んだ実の両親のことを、そして自分だけが「はらいそ」に行き、永遠の生をまんまと獲得することが、実は教えの真の実践にはならないということを。そして、火あぶりによって殉教することを諦め、自害して両親のいるだろう「いんへるの」へ旅立つことを決意する。救われない者を救われないままに、ただ傍に寄り添おうとする姿勢…

 ほんとうの信仰とは何か。正しい行いとは何か。そこには普遍的な理屈はなく、いわばケースバイケースとしかいいようのない「倫理」(めいたもの)しか見出せない。いささか苦しいが、理屈(からごころ)ではなく情緒(もののあはれ)によってそのつどの宗教的理屈を生きる姿勢、出たとこ勝負のパフォーマティヴなあり方こそが日本文化の本質でその「変わらなさ」の核にあるものであるということなのだろうか。