アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

『本は読めないものだから心配するな』菅敬次郎

読書とは、一種の時間の循環装置だともいえるだろう。それは過去のために現在を投資し、未来へと関係づけるための行為だ。過去の痕跡をたどりその秘密をあばき、見いだされた謎により変容を強いられた世界の密林に、新たな未来の道を切り拓いてゆくための行為。時間はこうしてぐるぐるまわり、自分はどんどん自分でなくなってゆく。そこでもっともあからさまに問われる能力は、結局、記憶力だということになる。記憶力とは、流れをひき起こす力だ。過去が呼びだされ、その場に現在するテクストを通過して、ものすごい速さで予測される未来のどこかへと送りこまれてゆく。この加速力こそ読書の内実であり、読書の戦略とはさまざまな異質な過去を、どのようにこの加速の機構をつうじてひとつに合流させてゆくかということにほかならない。そしてこの流れだけが想念に力を与え、自分だけでなく「われわれ」の集合的な未来を、実際にデザインしていく。(『本は読めないものだから心配するな』菅敬次郎より)

メモ

『八月の光』ウィリアム・フォークナー

ジョー・クリスマス 幼少期の暴力描写」

①ミセス・マッケカーンが用意してくれた食事を床に叩きつけるシーン

②黒人の少女に暴行しかけ、逆に仲間から袋叩きに合うシーン

「思想 西川長夫について 酒井直樹

アメリカの対日本戦争終結後の統治計画=開戦時からのエキスパートの育成・教育への着手

「ベルリンの奇異茶店から世界へ」多和田葉子/堀江敏幸 対談(「新潮」2017.7)

 非在としてのアジア

堀江 多和田さんは、朗読会やシンポジウムなどで、よくドイツの外に出られますが、日本に帰ってくるとき、他とちがう思いはありますか。

多和田 日本に着くとすごく嬉しいんですが、でもこの日本は私が帰りたい日本とちょっと違うなという違和感も覚えます。移民の中で出身国はフィクション化されていくと言いますがまさにそれですね。私の中の日本は、もうちょっとベトナムみたい、あるいはタイみたいなんです。

堀江 つまりアジアの国々?

多和田 そうです。アジアはこういう場所なんじゃないかということをみんながもっと空想してもいいんじゃないかと思うこともあります。この場合のアジアはもちろん日本も仲間に入れてもらっているアジアのことですが。ヨーロッパ人はヨーロッパとは何かを常に自分で定義しようとしています。そういう自己申告はアジアにはなくて、極端な言い方をすれば、アジアというのはヨーロッパ人やアメリカ人から見たアジアであって、それとは全く違ったアジア像をつくることに関心のある人が日本にあまりいないように思います。

 アジアの国にいると、自分の子ども時代に対して今の自分を開く感じがします。ベルリンを歩いているときには今のベルリンをすべて吸収しよう、見ようとして歩いている。誰でもない私、幼年時代を持たない私みたいなのが歩いているって気がするのですが、インドや香港、台湾に行ったりすると、どうしても幼年時代に向かって自分が開いて、自分が重くて不透明になる。

 「幼年時代」の意味

韓国では濃厚に感じられたが、オーストリアでは感じなかったもの。

幼年時代」と「現在の日本(現在の自分自身の生活空間のイメージ)」

木下順二「子午線の祀り」知盛のセリフ(池澤夏樹「終わりと始まり」170805より)

木下順二はこの芝居の主題を、運命は天が決めるか否かに置いている。知盛は問う―「負け戦さ―わが子武蔵守知章を眼前に見殺しにして逃げたこと―馬を敵の手に放ったこと―その一つ一つが、すべてはそうなるはずのことであったといま思われるのはどういうことだ?」という問い。

運命の象徴として月の運行がある。月が潮を動かし、潮が壇ノ浦の海戦の勝敗を決めた。月が子午線を渡るという現象は人間の手では動かしがたい。そう考えて知盛は負けたことを自分に納得させ、「見るべき程の事は見つ」と言って自ら水中に没する。

 納得のかたち

ほんとうに確率的な/偶然の問題なのか

運命とは何か

After the first death, there is no other.

A Refusal to Mourn the Death, by Fire, of a Child in London

 

Never until the mankind making

Bird beast and flower

Fathering and all humbling darkness

Tells with silence the last light breaking

And the still hour

Is come of the sea tumbling in harness

 

And I must enter again the round

Zion of the water bead

And the synagogue of the ear of corn

Shall I let pray the shadow of a sound

Or sow my salt seed

In the least valley of sackcloth to mourn

 

The majesty and burning of the child’s death.

I shall not murder

The mankind of her going with a grave truth

Nor blaspheme down the stations of the breath

With any further Elegy of innocence and youth.

 

Deep with the first dead lies London’s daughter,

Robed in the long friends,

The grains beyond age, the dark veins of her mother,

Secret by the unmourning water

Of the riding Thames.

After the first death, there is no other.

 

 ロンドンの子供の火災による死を悼むことを拒否して

 

人類を創り

鳥と獣と花の父となり

すべてのものを謙虚ならしめる暗闇が

無言のうちに 最後の光が射すのを告知し

また 静かな時間が

馬具を身につけて のたうつ海からやって来る時までは

 

そして 私が再び

水玉のまるいシオンの山と

麦の穂のユダヤ教会堂に入らねばならない時までは

決して私は 音の影に祈らせたり

喪服のいとも小さき谷間に

自分の塩の種を蒔いたりして

 

この子供の荘厳なる焼死を悼むことはしないだろう

厳粛な真実をたずさえていく彼女のような人間を

私は殺すようなことはしないだろうし

また これ以上無垢と若さのエレジーで

息の在り処の神性を

汚すこともしないだろう

 

最初の死者とともに  ロンドンの娘は地下の深い所に横たわる

長い間の友だちを身にまとい

時代を超越した穀粒  その子の母親の暗い静脈に包まれて

流れゆくテムズ川

悼むことのない水のほとりにひそやかに

最初の死の後に もはや他の死はない

望月健一

 池澤夏樹「終わりと始まり」170805から「ディラントマスの戦争詩(3)」(国際教養学部紀要vol1)望月健一に当たる

蜂飼耳「松浦理英子『最愛の子ども』」書評より 恋愛?友情?友愛?いいえ…

世の中には恋愛や友情や友愛といった言葉があって、誰でも使うことができる。けれど、人と人との関係をじっと見つめるなら、どれも恐ろしいほどに唯一のものであり、本来的には名付けることなどできはしないのだと気づく。

(中略)

…名付けることのできない関係は、名付けないまま生きればいいと、この小説の姿は強く告げている。

  現実の文学的読解

 

「大岡信を送る 2017年  卯月」谷川俊太郎

大岡信を送る 2017年  卯月

 

本当はヒトの言葉で君を送りたくない

砂浜に寄せては返す波音で

風にそよぐ木々の葉音で

君を送りたい

 

声と文字に別れを告げて

君はあっさりと意味を後にした

朝露と腐葉土と星々と月の

ヒトの言葉より豊かな無言

 

今朝のこの青空の下で君を送ろう

散り初める桜の花びらとともに

褪せない少女の記憶とともに

 

君を春の寝床に誘うものに

その名を知らずに

安んじて君を託そう

 フクヤマにもこんな気の利いた言葉を送ってやるヤツがいたなら、少しは。

 

 

 

漸進主義は現代医療のヒーローだ1 アトゥール・ガワンデ

医療に対して、私たちはヒーローに対するのと同じような期待を抱いている。第二次世界大戦後、ペニシリンなど山ほどの抗生物質が、それまで神の手によるしかないと思われていた細菌性疾患の災禍を克服した。新しいワクチンがポリオやジフテリア、風疹、麻疹を撃退した。外科医は心臓を開き、臓器を移植し、手術不能だった腫瘍を切除する。心臓発作を止められるようになり、がんは治せるようになった。過去、どの世代でも経験したことがないような人の病気に対する治療の変化が、この一世代のあいだに起きたのである。これはまるで、水をかければ火を消せることを発見したようなものだ。だから、それに合わせて医療システムも消防士を配置するかのように作り上げられている。医師は救世主になった。

しかし、このモデルはまったくの間違いである。病気が火事だとすれば、大半のものは消えるまでに何カ月も何年もかかるか、小さなくすぶりに抑えることができるだけである。治療には副作用があるだろうし、合併症にはもっと注意を払わなければならないだろう。慢性疾患がありきたりの病気になってきたのだが、それに対する備えは貧弱である。人の病の大半には、もっと地道なタイプの技術が必要なのである。(原井宏明訳)

世の中で起こる事柄すべてを鮮やかにコストパフォーマンスのコードで解釈してみせる手際の輩はきっと自然そのものがデジタルに出来上がっていると思い込んでいて、「経験の不足」という一世紀以上前から指摘されている教育上の病を患っているが自分では気づけない。それで、人間の身体に起こる現象も感情というフィールドでの出来事も、一挙解決が可能なゲームと見なしてしまうので、言葉で表現されるとき「ゲーム」ではなく「自然」と銘打たれている場合でさえ、訳知り顔を装い「万事先刻承知」と自ら勘違いをしていることに気づかず 、だがそんな人間が本当にいるのか。いるとすればまず思い浮かぶのは過去の自分自身であり、あと思い浮かべることができるのは自分の仲のよい友人くらいで、それ以外は想像上の人物か、断片で与えられた発言から作ったイメージ上の人物かで、「この人がそうだ」と指させる人物はいない。