「コルヴィッツ通り」多和田葉子 『新潮』2016年4月号
子どもは親のすべての表情、仕草、言葉を最終的には解釈できないままに記憶し、夜空のように肩に背負って歩いていく。P132
自らある程度年をとってからちりばめられた星と星をつなぐように記憶の断片をつないで、柄杓や熊のかたちをした星座を描いてみて、雪の中を後ろ向きに歩く自分を黙って見つめていた母親の心境はこうだったのではないか、ああだったのではないか、と思いをめぐらすこともあるだろう。
アントワーヌ・コンパニョン『書簡の時代』 ロラン・バルトについて
まずは書評について。
意志の唯物性 意識はどれほど物理的か
17 自由
進化論の説くところによれば、ぼくらはあらかじめ創造された天地に投げ込まれたアダムとイブではないのである。わかるべき世界にわかりたい者が投げ出されたのではなく、わかるべき世界とわかろうとする者とが、互いに互いを作り合ってきたのだ。
「森田真生 数をめぐる一七の断章」より
インターステラー 5次限空間について
柴崎友香『わたしがいなかった街で』
マンションの三階の部屋に辿り着くと朝早い仕事の母はとっくに寝たあとだった。ノートパソコンを開いて知人のブログを巡回しながら、焼き鳥とこんにゃくと糸こんにゃくとうどんを食べた。知人たちは概して「相変わらず」という感じだった。最近食べたもの、最近見た面白い画像へのリンク、職場の愚痴、取ってつけたようながんばろうとか仲間に感謝してるというような言葉。太田の両親がやっていたスーパーが閉店したことを書いていた同級生のブログを見ると、会社を辞めて中国語の勉強に行くと書いてあり、今日食べたラーメンの写真がアップされていた。
中国語わたしもやりたいな、がんばってー、と適当なコメントを書き込みながら、まあなんというか、自分の周りはこういう感じで時間が経っていくんだろうな、と夏は思った。今はそれなりに、高級ではないけれどおいしいものを食べて三分ぐらいの動画見て笑って、自分たちはそこそこがんばっているのだと確認するためのコメントをしあっているうちに、だんだん先細りしていって、近所の店は閉店し、親は歳を取る。自分は、今の仕事が続く限りはあの職場に通いそうだ。結婚したいという気持ちは全く起こらないし、恋人がほしいとも思えない。じゃあ、ずっとここで母と暮らすんだろうか。(文庫 p118)
00年「きょうのできごと」から注目していて、映画化されたものもビデオで観ており、今回読了は2冊目。(!注目って…)描写が非常に巧みでほんの一部分を切り取ってみても、背景を読み取ることが可能な細部を書き込んでいる。
鼠骨来る 共に午餐をくふ/鼠骨去る 左千夫義郎蕨真来る 晩餐(鰻飯)を共にす 正岡子規
◇ 病床で激痛にのたうちまわる俳人を、友人や弟子筋がひっきりなしに見舞う。まるで病床がサロンになったかのよう。代わりに痛むわけにはいかないけれど、傍らでしばし気を散らせることはできる。そこには痛む人を孤立させないという知恵が働いていた。そういう形で、痛む人を支える〈痛みの文化〉があった。「仰臥漫録」から。
痛む人たちのその痛みを和らげようと、システムが行政が生活支援をメンタルケアを公的サービスとして行う。もしくは、市場のなかで対価を支払ってセルフケアを行う。そのような贈与や交換のような「和らげ」ではなく、もっと、「純粋贈与」のような、「おせっかい」はないか。誰かが何の得にもならなくても、悩みを聞いてくれないか。悩む前に、多くの悩みを未遂で終わらせることはできないものか。
ミヒャエル・エンデ『モモ』で読んだように、みんなそのための時間をドロボウされてしまっているんだろうな。