アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

池内紀『闘う文豪とナチス・ドイツ』(中公新書)

父は若い歴史学者の報告に注釈を加えるようにして述べている。「……グロテスク。破局への誇り。自分たちがいかに悲惨であるか、彼らにはまだわかっていない。自由のお祭り騒ぎがこれからきっと起こるだっろう」(五月二十八日)

マンは性急で苛立っている。ナチス思想を否定するどんな声も聞かれない。ヒトラーによる政権掌握に手をかし、九〇パーセントをこえる国民投票で歓呼し、集団殺戮、破局、すべてを容認した。その罪を認めるどんな言葉も語られない。

ファシズム支配の終焉、囚われ状態からの解放と新しい始まりを迎えて、日記の書き手は苦い思いで書きとめなくてはならなかった。何もかもが過ぎ去ったとき、どうしてあんなことを許したのかと、他人ごとのようにして人は不思議に思っている。個人はいかに無力で、良心について考えるのがいかに難しいことであるか。ある体制を容認し、むしろ有利にはかるのは「第一級の犯罪行為」だというのに、それを認めるどのような言葉も聞こえてこないのである。

 

あらゆる日常的な場面であらわれる、周囲の人間の情動をモニタリングしてみれば、すぐに見つかる性質。とくに現代のような法や規律、掟によって抑圧された日常の中においての、集団的な高揚の場面にみられる共通の性質。

マンの苦々しい思い。

トーマス・マンの小説作品。

170826(土)渡辺京二より

170826(土)

渡辺京二より酒井若菜様へ「あなたへ往復書簡」

根岸鎮衛『耳袋』/橘南谿『東西遊記』/松浦静山『甲子夜話』

三田村鳶魚『歌舞伎百話』

「政治季評」豊永郁子

17世紀の哲学者ジョン・ロック『市民政府論』

「被征服民の権利」

 

ロックの所説は、沖縄に関して、さらに次の三つのことを示唆する。

 第一に、ロックの謳(うた)う「被征服者とその子孫」の権利は、あくまで個人の権利であり、ナショナリズムとは関係ない。「沖縄ナショナリズム」がなくても、政府をつくる権利や先祖伝来の土地などへの権利が主張され得るということだ。

 第二に、過去における征服者への追従や同化、忠誠が、彼らのこうした権利を減じることもない。沖縄を明治期に征服した日本、大戦で征服したアメリカ、そのどちらにも沖縄はよく順応したのかもしれない。それでもなお子孫には、征服で失われた権利を主張できる可能性がある。

 第三に、征服者に与えられた政府は、被征服者が自らの意思で承認した政府ではない。沖縄の人々にも、日本の政府は自分たちが同意によって生命・身体・自由・財産の保護を委ねた政府ではないという感覚があるのかもしれない。そうだとすれば、彼らの訴えがつねに日本の政府は本気で沖縄の個人を守る気があるのかという問いに帰着し、その問いに切迫感があるのもうなずける。加えてここには沖縄戦の記憶もある。

 

津島佑子『半減期を祝って』(2)

自分の子どもがまだ小さい親たちは、先の話だと思って、知らんぷりを決めこんでいる。子どもが中学生になったら、留学させるつもりでいる親も少なくない。今のところ、まだそんな抜け道が残されてはいる。お金さえあれば、なんとかなるという考え方が、三十年前から幅をきかせていたが、最近になってますます横行するようになった。(p88)

早期教育だといって、いくつもの習い事をさせ、学習塾や英会話塾に通わせるのは何のためか。中高一貫の有名私立から、東大京大、医学部医学科、英米の有名大学へと学歴を身につけさせるのはなんのためか。

津島佑子『半減期を祝って』(1)

子どもたちの運動会と言えば、最近、新しい法律をめぐって大騒ぎになっているらしい。中学生の親たちのなかには、どうしたってこんな法律には承服できない、と国会議事堂まで行き、むかしなつかしい座り込みをしているひとたちもいるという。

四、五年前に、独裁政権が熱心に後押しをして、「愛国少年(少女)団」と称する組織、略して「ASD」ができ、それが熱狂的にもてはやされるようになった。子どもたちがむやみに入団したがるので、順番待ちの状態になっている。「ASD」をモデルにした漫画がこのブームを作り出したという話だった。キャラクターつきの商品も売り出されているが、いつでも入荷待ちの状態で、それでますます人気があおられる。

その動きに眉をひそめる親たちは子どもたちを叱り、引き留めようとする。あんなものにおどらされちゃいけない、と。「ASD」に熱中する子どもたちは、「神国ニホン、バンザイ!」とか、「われら神の子に栄光あれ」とか、極端に神がかった、しかも、いかにも漫画的なことばを本気で口にしはじめるので、親たちの心配も無理はなかった。けれど、政権側は政権側で黙っていない。「ASD」に子どもを入れたがらないような独善的な親は決して見逃せない、ということで、新しい法律を作ろうとしている。「ASD」をきらい、無視しようとすれば、親としての責任放棄の罪を問われ、最低十年の禁固に親たちは処せられるというとんでもない内容の法律らしい。

親が逮捕されたらどっちみち、子どもたちは「ASD」に行くことになるので、それならはじめから入団させておこう、という親が増えている。どうしても入団を拒否しつづけようと思ったら、ほかの国に亡命するしかない。

ASD」は十四歳から十八歳までの四年間の子どもたちが対象となっていて、十八歳を過ぎたら今度は、男女を問わず、国防軍に入らなければならない。「ASD」の出身者であれば、優先的に国防軍の幹部候補として扱われる。つまり、戦争をどの国ともしていない現在は、貴族のような待遇を享受できることになる。(p87~88)

 あと「メリトクラシ―」と「国際資本の動き」を味付けして、「戦争をどの国ともしていない」を「している」と訂正すれば、現在のこの国の有り様が正確に描写されているといえる。

そして、これはいま現実の私たちの欲望を表しているとも感じるし、まさにそれを目の前にした時の私たちのとるはずの行動、そして目の前に2017年の社会/世界の現実を前に、自分たちに内面化された価値に従って、いま現に私たちがとっている行動をいきいきと描写しているとも。

どの世代にとっても自分の生きている現実は、デフォルトスタンダードからの漸進的な変化の結果にすぎないので、日常を過ごすなかで見聞きする社会情勢はとてもの馴染みのある世界のものと感じられるのがふつうである。

 

「小説」について(1‐1「想像的なものとの出会い」モーリス・ブランショ『来るべき書物』粟津則雄訳)

あらかじめ宿命づけられたこのつつましさ、何ものも願わず何ものにも到りつくまいとするこの欲求、これらが、多くの小説を、何ひとつ非難すべき点のない書物と化し、小説というジャンルをあらゆるジャンルのなかでもっとも好ましいジャンルと化するに足りることを認めねばならぬ。この小説というジャンルは、その控え目な性質と楽しげな無力さとによって、他の諸ジャンルが本質的なものと称することで破壊しているものを忘れ去ることをつとめとしてきた。気晴らしこそ、小説の内奥の歌である。絶えず方向を変え、まるで出まかせのように進み、ある不安な動き、幸福な放心へと変形する動きを通して、いっさいの目標をのがれ去ること、これが、小説が小説たることを示す第一のもっとも確かな証拠であった。人間的時間を、或る遊びと化すること、この遊びを、いっさいの直接的な利害関心や、いっさいの有用性から解放された、本質的に表面的な、そのくせこの表面の動きを通して存在のすべてを吸い取ることの出来るような、自由な仕事と化すること、これは容易なことではない。小説が、今日このような役割を充分に果たしてはいないとしても、明らかにそれは、技術によって、人間の時間と、時間から気をまぎらせる諸手段が変えられてしまったからである。

人を動員するための方法の一つとして用いられるプロパガンダ装置と誤認され、誤配されることでブランショの云う「小説」がだれが意図するということもなく成り立つとも考えられるのだが、それは抽象的な解釈の中でのみ、つまり観念的対象としてそれを考えるときにだけ成り立つにすぎない「概念」である。というのも、政治性を剥奪された純粋なだけの物語の作用というものは考えられず、それがやっと「小説」と名づけられ、考察の対象となると同時に上記のような記述が可能となることからもわかる。ただ、非日常的に自由な境地を求める読者というものはしばしば存在するし、自由を描くことばかりではなく、反対に不自由を描くことによってそれが十分に達成されることがあることも忘れてはいけない。あらゆる微細な政治性から解放されるということはもちろん不可能だとしても、「小説」が時間からの解放、自由を企図していることがその本質的な性質だとは言うことができるし、それが「小説」とそれ以外のものとを区別する指標だと考えると分かり易かろう。