アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

「コミュニケーションにおける闇と超越」國分功一郎/千葉雅也対談『現代思想』1708「コミュ障」の時代

國分 ある一定の貧相な基準に合致する人物しか活躍できないような社会はよくない。僕の知る業界だと、例えば大学の人事評価や新任人事のやり方にもエビデンス主義が入ってきていて、五つぐらいの評価枠をつくって点数をつけるというようなことが行われてきているけど、それによって失われるものは非常に大きい。ただ、繰り返しになるけど、この種のエビデンス主義は、ある意味で民主主義の徹底なんですね。誰にでも理解できる基準でものごとを決めるということですから。だから簡単には否定できない。ただルートがそれだけになってしまうのはまずい。何でもかんでも、決まり切ったわかりやすい公正な原理で進められればいいというわけではないでしょう。

千葉 なるほど、コミュニケーション規範性にうまく乗るような営業トークも、一定のパラメータでしか評価しないエビデンス主義も、画一化という大きな流れのなかにある。まあ、それらしいエビデンスを根拠資料にして、ある典型的なグルーヴでプレゼンする営業マンというのが企業にも大学にも溢れていますからね(笑)

 同感。企業はいいとしても、教育機関や教育者までが、自分たちの目指す価値を反省的に見つめ直すことを怠って、画一的な価値観で生きる人間を生み出し続ければ、(新たに今よりも悪い社会が生み出されるのではないが)現在のような社会が続きながら、同時にその毒素の部分が一層その濃度を増していくことになる。それがつまり多様性の喪失…弱体化…なのか。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく

「わたしはイルカになった。」

ジャック・マイヨール(素潜り100m) 

「そのとき私は山になる。」

ラインホルト・メスナー(8000m級の山に酸素ボンベなし登頂)

『あわいの時代の『論語』ヒューマン2.0』安田登

羌族」の人たち

家畜の牛

『わたしを離さないで』のヘールシャムの子どもたち

なぜ逆らいもせず殺されるがままなのか?

「文字」によって成立しうる

「時間」という意識が無いから

池内紀『闘う文豪とナチス・ドイツ』(中公新書)

父は若い歴史学者の報告に注釈を加えるようにして述べている。「……グロテスク。破局への誇り。自分たちがいかに悲惨であるか、彼らにはまだわかっていない。自由のお祭り騒ぎがこれからきっと起こるだっろう」(五月二十八日)

マンは性急で苛立っている。ナチス思想を否定するどんな声も聞かれない。ヒトラーによる政権掌握に手をかし、九〇パーセントをこえる国民投票で歓呼し、集団殺戮、破局、すべてを容認した。その罪を認めるどんな言葉も語られない。

ファシズム支配の終焉、囚われ状態からの解放と新しい始まりを迎えて、日記の書き手は苦い思いで書きとめなくてはならなかった。何もかもが過ぎ去ったとき、どうしてあんなことを許したのかと、他人ごとのようにして人は不思議に思っている。個人はいかに無力で、良心について考えるのがいかに難しいことであるか。ある体制を容認し、むしろ有利にはかるのは「第一級の犯罪行為」だというのに、それを認めるどのような言葉も聞こえてこないのである。

 

あらゆる日常的な場面であらわれる、周囲の人間の情動をモニタリングしてみれば、すぐに見つかる性質。とくに現代のような法や規律、掟によって抑圧された日常の中においての、集団的な高揚の場面にみられる共通の性質。

マンの苦々しい思い。

トーマス・マンの小説作品。

170826(土)渡辺京二より

170826(土)

渡辺京二より酒井若菜様へ「あなたへ往復書簡」

根岸鎮衛『耳袋』/橘南谿『東西遊記』/松浦静山『甲子夜話』

三田村鳶魚『歌舞伎百話』

「政治季評」豊永郁子

17世紀の哲学者ジョン・ロック『市民政府論』

「被征服民の権利」

 

ロックの所説は、沖縄に関して、さらに次の三つのことを示唆する。

 第一に、ロックの謳(うた)う「被征服者とその子孫」の権利は、あくまで個人の権利であり、ナショナリズムとは関係ない。「沖縄ナショナリズム」がなくても、政府をつくる権利や先祖伝来の土地などへの権利が主張され得るということだ。

 第二に、過去における征服者への追従や同化、忠誠が、彼らのこうした権利を減じることもない。沖縄を明治期に征服した日本、大戦で征服したアメリカ、そのどちらにも沖縄はよく順応したのかもしれない。それでもなお子孫には、征服で失われた権利を主張できる可能性がある。

 第三に、征服者に与えられた政府は、被征服者が自らの意思で承認した政府ではない。沖縄の人々にも、日本の政府は自分たちが同意によって生命・身体・自由・財産の保護を委ねた政府ではないという感覚があるのかもしれない。そうだとすれば、彼らの訴えがつねに日本の政府は本気で沖縄の個人を守る気があるのかという問いに帰着し、その問いに切迫感があるのもうなずける。加えてここには沖縄戦の記憶もある。

 

津島佑子『半減期を祝って』(2)

自分の子どもがまだ小さい親たちは、先の話だと思って、知らんぷりを決めこんでいる。子どもが中学生になったら、留学させるつもりでいる親も少なくない。今のところ、まだそんな抜け道が残されてはいる。お金さえあれば、なんとかなるという考え方が、三十年前から幅をきかせていたが、最近になってますます横行するようになった。(p88)

早期教育だといって、いくつもの習い事をさせ、学習塾や英会話塾に通わせるのは何のためか。中高一貫の有名私立から、東大京大、医学部医学科、英米の有名大学へと学歴を身につけさせるのはなんのためか。

津島佑子『半減期を祝って』(1)

子どもたちの運動会と言えば、最近、新しい法律をめぐって大騒ぎになっているらしい。中学生の親たちのなかには、どうしたってこんな法律には承服できない、と国会議事堂まで行き、むかしなつかしい座り込みをしているひとたちもいるという。

四、五年前に、独裁政権が熱心に後押しをして、「愛国少年(少女)団」と称する組織、略して「ASD」ができ、それが熱狂的にもてはやされるようになった。子どもたちがむやみに入団したがるので、順番待ちの状態になっている。「ASD」をモデルにした漫画がこのブームを作り出したという話だった。キャラクターつきの商品も売り出されているが、いつでも入荷待ちの状態で、それでますます人気があおられる。

その動きに眉をひそめる親たちは子どもたちを叱り、引き留めようとする。あんなものにおどらされちゃいけない、と。「ASD」に熱中する子どもたちは、「神国ニホン、バンザイ!」とか、「われら神の子に栄光あれ」とか、極端に神がかった、しかも、いかにも漫画的なことばを本気で口にしはじめるので、親たちの心配も無理はなかった。けれど、政権側は政権側で黙っていない。「ASD」に子どもを入れたがらないような独善的な親は決して見逃せない、ということで、新しい法律を作ろうとしている。「ASD」をきらい、無視しようとすれば、親としての責任放棄の罪を問われ、最低十年の禁固に親たちは処せられるというとんでもない内容の法律らしい。

親が逮捕されたらどっちみち、子どもたちは「ASD」に行くことになるので、それならはじめから入団させておこう、という親が増えている。どうしても入団を拒否しつづけようと思ったら、ほかの国に亡命するしかない。

ASD」は十四歳から十八歳までの四年間の子どもたちが対象となっていて、十八歳を過ぎたら今度は、男女を問わず、国防軍に入らなければならない。「ASD」の出身者であれば、優先的に国防軍の幹部候補として扱われる。つまり、戦争をどの国ともしていない現在は、貴族のような待遇を享受できることになる。(p87~88)

 あと「メリトクラシ―」と「国際資本の動き」を味付けして、「戦争をどの国ともしていない」を「している」と訂正すれば、現在のこの国の有り様が正確に描写されているといえる。

そして、これはいま現実の私たちの欲望を表しているとも感じるし、まさにそれを目の前にした時の私たちのとるはずの行動、そして目の前に2017年の社会/世界の現実を前に、自分たちに内面化された価値に従って、いま現に私たちがとっている行動をいきいきと描写しているとも。

どの世代にとっても自分の生きている現実は、デフォルトスタンダードからの漸進的な変化の結果にすぎないので、日常を過ごすなかで見聞きする社会情勢はとてもの馴染みのある世界のものと感じられるのがふつうである。