アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

「動物、避けがたい謎ー相似により、われわれと対立する」 ポール・ヴァレリー

 人間と動物のあいだには、なぜこうした相互理解が存在するのか?このことは、いかなる人間関係にもまして、奇跡的で、貴重なもののように思われるのである。が、同時に、これほど簡単なものもない。犬とすれちがう。ひとこと言葉をかけてやるか、そっとなでてやる。すると、犬は少しももったいぶることなく、相手に応じてくれる。この神秘的な交感を確かめたくて、わたしはこの本を書いてみた。でも、この本によってなにも解決されはしないし、犬たちがいつまでもわたしを驚かせ続けるであろうことが、わたしには分かっている。

(「謎」ロジェ・グルニエユリシーズの涙』より)

 

ユリシーズの涙

ユリシーズの涙

 

人間は日付よりも動作や笑い声を鮮明に記憶しているものです

人間は日付よりも動作や笑い声を鮮明に記憶しているものです 

ドゥルーズ『記号と事件』「物を切り裂き、言葉を切り裂く Ⅲミシェル・フーコー」p169冒頭)

  晩年のドゥルーズが、フーコーとの出会いを振り返りインタビューに答えて。

 ところで、

 ほんとうに思考するとは、もちろん誰にとっても「ただなか」で考え行動することとつながているはず。だが、さまざまな力が交差し、かならずしも理想的なかたちでそうすることができることばかりではない。むしろ、そもそもの問題の核心を見失って、いわゆる「手段の目的化」が起こっていることにも気づくことなく(つまりあさっての方向をはるかに見定めながら)、ありもしない起源へと遡行し、適切でない問題に、あるべき道行きを見失わされてしまうというのがほんとうのところではないのだろうか。以下は、哲学の問題の核心のありかについて説明したインタビューの一部。

 出発することも、到着することも、もはや問題にはならなかった。問うべきは、「ただなか」では何がおこるのかということだったからです。そしてこれと同じことが物理的な運動にも当てはまる。

 運動は、スポーツや生活習慣のレベルで、明らかに変わろうとしています。私たちは長いあいだエネルギー論的な運動観をよりどころにして生きてきました。つまり、支点があるとか、自分こそ運動の源泉であるといった考え方をしてきたわけです。スプリントや砲丸投げなどは、筋力と持久力の問題だし、そこにはどうしても起点やてこが関係してくる。ところが、昨今の状況を見ればわかるように、てこの支点への同化をもとにした運動の定義は次第にまれなことになってきたのです。新しいスポーツ(波乗り、ウインドサーフィンハンググライダーなど)は、すべて、もとからあった波に同化していくタイプのスポーツです。出発点としての起源はすたれ、いかにして軌道に乗るかということが問題になってくるのです。高波や上昇気流の柱が織りなす運動に自分を同化させるにはどうしたらいいか。筋力の起源となるのではなく、「ただなかに達する」にはどうしたらいいか。問題の核心はそこにあるのです。

ジル・ドゥルーズ『記号と事件』「Ⅳ哲学 仲介者」p243,244)

 「ただなか」で考え、工夫することで行動の妨害をするものを乗り越えることは、日々の生活の中で不可欠な習慣であるはずなのだが、やはりここでも「筋力」や「支点」の問題が頭を擡げ始める。

朝日新聞2017年9月19日2017年9月19日)折々のことば 878

なにが自分の希望か知らないで、

 どうして自分の行動が正しいと確信できるんだね?

 ジョン・ル・カレ

 東独情報部の課長が英国情報部員を尋問中、その行動の根拠となる思想を問う。「人間だれもが哲学をもっているとはかぎらんよ」と英国情報部員が返すと、課長がこう畳みかけた。希望はしかし目的とは違う。目的が正しさの根拠になればどんな手段も個人の犠牲も許容される。一足飛びに希望を語るこの性急さは危ない。小説『寒い国から帰ってきたスパイ』(宇野利泰訳)から。(鷲田清一

  「目的」と「希望」との差…

 もっとシンプルにならないものか…

 だが、じっさいにそうなったとしても、その単純さが思考の省力(怠惰)と見分けがたいものとなり、情報(命令)の縮減化が真理(幸福)への正しい道と短絡され、分かりやすい図式化された世界の見取り図がまかり通る。実はそのことが、次の複雑な問題を呼び寄せる問題そのものだったりするのだが。

 そうやってわれわれはコンプライアンスの「ただなか」で、そこから逸れないようにそれないように、目的を希望と混同しながら、じっくりと考える時間も奪われたまま、「起源」を問う徒労も自ら巧妙に回避し、人生の残り時間を生きる。

一歩一歩すべてが危険から遠ざかるのに必要なのだ

 わたしは若いころから写真を撮るのが嫌いで、どこかへ出かけたときには特にそうだった。そして、ほんの十年ほど前までずっとそんなことを考えたこともなかったわけだが、自分の人生の経験から掴んだ「時間」というものの姿は、いつもくりかえしいやというほど反復され、それはまるで永遠とでも呼べそうな感覚で、しかも写真以上にとても鮮明で自分のなかにつねにその都度立ちあがってはくる。だが、注意深く観察するとそれらは必ず平穏な目覚めにごくゆっくりとつながっていて、それぞれの時間からわたしを引き離し、ときにはそれはまるでこの現実もそれら和やかな記憶の世界と直結しているものに感じられもし、そんなことはごくまれで多くは華やいだ気分もなく、ただ救いなのはよいこともわるいことも同様に沈んだ心持のなかに回収されていくことばかりということなのだ。

…ぼくは自分の人生で訪れた場所を覚えていた、完璧に、外科手術にも似た不必要な正確さで覚えていた。日付の記憶はもっと不確かだった、日付なんて重要ではないのだ、かつてあったことは永遠の出来事だといまでは知っている、でもそれは閉じられていて到達不可能な永遠なのだ。(ミシェル・ウェルベックセロトニン』p281)

  過去のわたしが当事者だったはずの素晴らしい出来事も、今のわたしにとって「関係がない」というしかない。

 思い出は断片的だ。何度か昼食の時間に車で市外へ行ったことを覚えている。彼は運転が好きで、適当な出口で高速を下りて、おいしい料理が食べられる田舎の隠れ家レストランを見つけるのが好きだった。…どこで奥さんと暮らしていたのか、どの町に住んでいたのか、わたしは知ろうともしなかった。彼がわたしの家に来たこともなかった。電話が来るのを待って、毎回会いに行った。それは灼熱のエピソード、一瞬のきらめきで、わたしにはもう何の関係もない。(ジュンパ・ラヒリ『わたしのいるところ』p100)

 今現在じぶんのしていることひとつひとつを「一歩一歩すべてが危険から遠ざかるのに必要」とほんとうはそれが偽りだと十分に知っていながら目的論的に捉え直して表現すると、それでも少し気分が上向きになる。あくまでそれは偽りだと知っているのだが。

…一日に三回、わたしたちは同じコースを散歩する。わたしは犬に愛着を感じる。そのいつも警戒を怠らない耳、敏捷な足の運び、つねに何かを求めている鼻に。わたしたちの歩く距離は彼に引っ張られてだんだん長くなる。それでもリードをもっているのはわたしだ。わたしの片思いが終わり、存在しないわたしたちの恋愛関係を慕わしく感じなくなるまで、一歩一歩すべてが危険から遠ざかるのに必要なのだ。(ジュンパ・ラヒリ『わたしのいるところ』p131)

  なんか萎える…

ダントツによい西脇順三郎訳「バーント・ノートン」

「神の御言葉は、

人々に共通なものであるのに

人々は各々自分だけの考えで生きている」

 

「上がる道も下る道も同一である」

―ヘーラクレイトス

 

バーント・ノートン

 

 

現在と過去の時が

おそらく、ともに未来にも存在するなら

未来は過去の時の中に含まれる。

すべての時が永遠に現存するなら

すべての時はとり返しが出来ない。

あり得たものは一つの抽象されたもので

ただ思索の世界にしか

永遠に可能なものとして残るだけだ。

あり得たものも、あったものも

一つの終わりを指さす、それは永遠に現存する。

足音は記憶の中に反響する

開けたことのない薔薇園への出口のある

通ったことのない廊下に

反響する。私の言葉は反響する

そんな風に、あなたの心にも。

      だが何のために

……

西脇順三郎コレクションⅢ翻訳詩集』「エリオット『四つの四重奏』」p129より

 

 けっきょくのところ、過去も未来もなくただ現在の抽象的な思索をそのように名付け、あったこととあり得たこととも区別することなく、くりかえし人はたとえそれが苦痛という刺激であったとしても、その享楽のなかに淫して、生きる糧とする。もしくは死ぬる理由とする。

……

過去にも未来にも延びつながる

この空しい悲しい時間は馬鹿々々しい。

 『ある島の可能性』のさいごにあってもいいような詩句だね。

 

 

現代社会の矛盾と絶望(『セロトニン』の帯より)

 幸福な人間が安心した気持ちでいられるのは、ただ不幸な人々が黙ってその重荷を担ってくれているからであり、この沈黙なしには、幸福はあり得ないからにすぎないのです。これは社会全体の催眠術じゃありませんか。(アントン・チェーホフ「ともしび」より)

  村上春樹「かえるくん、東京を救う」は、あるいは内田樹がいつも指摘する「雪かき仕事」は、誰にも知られない行為や善意が、それでもこの世界を支えている、この社会を回している、ということに英雄的な意味を読み取る発想で、実際にはそれらの行為は、徹頭徹尾沈黙を強いられ(つまり本当にだれにも知られることなく)、個人のすべての幸福の機会を奪われ、そして奉仕した社会そのものも不正がはびこり、悪意や欺瞞の勝利し繁栄する(それこそウェルベック風に言えば)クソみたいな世界なのだ。

 それでも世界が、沈黙を強いられた人たちにとって生きるに値するものだとするなら、それはなんのためか。

 

むなしくすごした悲しい時の/先に後に延々と横たわるあほらしさ

現在の時過去の時は

おそらく共に未来の時の中に存在し

未来の時はまた過去の時の中にあるのだ。

時がことごとく不断に存在するものならば

時はことごとく贖いえないものとなる。

かくもあったろう、とは抽象で

どこまでも可能性の止まるというのは

思索の世界においてだけだ。

かくもあったろうと、かくあったとの

終わる所はただ一つ、それがいつも今に在るのだ。

足音が記憶の中にこだまする

われわれが通ったことのない通路を

開けたこともない戸口にむかい

バラ園に出て行く。ぼくの言葉とてこのように

きみの心にこだまするのだ。

T.S.エリオット『四つの四重奏』「バーント・ノートン Ⅰ」二宮尊道