アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

足音は…わたしたちの通らなかった廊下を/わたしたちの開かなかった扉の方へと向かい

τοῦ λόγου δὲ ἐόντος ξυνοῦ ζώουσιν οἱ πολλοί
ὡς ἰδίαν ἔχοντες φρόνησιν
I. p. 77. Fr. 2.

"Although logos is common to all,

most people live as if they had a wisdom of their own."

理(ことわり)〔ロゴス〕こそ遍(あまね)きものというのに、多くの人びとは、自分独自の思慮を備えているつもりになって生きている。

ヘラクレイトス断片二

 

ὁδὸς ἄνω κάτω μία καὶ ὡυτή
I. p. 89 Fr. 60.

"The way upward and the way downward are the same."

上り道と下り道は同じ一つのものである。

ヘラクレイトス断片六〇
Heraclitus

(T.S.エリオット『四つの四重奏』岩崎宗治訳 エピグラフ

 

BURNT NORTON (No. 1 of 'Four Quartets') バーント・ノートン


Time present and time past
Are both perhaps present in time future,
And time future contained in time past.
If all time is eternally present
All time is unredeemable.
What might have been is an abstraction
Remaining a perpetual possibility
Only in a world of speculation.
What might have been and what has been
Point to one end, which is always present.

 

現在の時間と過去の時間は

おそらく共に未来の時間の中に現在し

未来の時間はまた過去の時間の中に含まれる。

あらゆる時間が永遠に現在するとすれば

あらゆる時間は償うことのできぬもの。

こうもあり得たと思うことは一つの抽象であり

永遠に可能態以上のものではなく

ただ思念の世界にとどまる。

こうもあり得たと思うことと、こうなってきたこととは

常に現在する一つの終わりに向かう。

(T.S.エリオット『四つの四重奏』岩崎宗治訳 バーント・ノートンⅠ)

 

 

さいごの孤独なたたかいに向けて

 『すばる』7月号で、特集「教育が変わる、教育を変える」が組まれ、そこで「高校国語」が大幅に変更され、「文学」を全く扱わなくなる方針の高校の教育課程改革について、作家、研究者がインタビュー・対談・論考で自説を述べあっている。そのなかから、前田英樹の本質を突いた発言に、そもそもわれわれの誰もが置かれている言語的環境…宿命?に思いを馳せる、という気分になる。

 軍事や科学技術や経済効果の拡大、増幅に狂奔する社会しか生きるべき世はない、と信じ切っている人間たちは、母語の働きに養われる喜びから遠く突き放された者たちである。だが、彼らもまた人間である以上、言葉と意識とがひとつになった心の重荷を持ち、やがては独りで死んでいく自分の未来をはっきりと知っているだろう。現実社会の競争に勝ったり負けたりの自分が、さて一体何だったのかをふと思い、死んでも死に切れぬ歎きを抱いてこの世を去っていくこともあろう。子供のころからの学校の学びが、このような事実に対して一切何の役にも立たないのだとしたら、そこに有用な教育があるといえるのだろうか。(前田英樹母語のうちの何を学ばせるのか」(『すばる』2019.7月号)より)

 国語教育あるいは学校教育は、上のような(大江健三郎的に言えば「魂のこと」とでもいえるような)私たちのすべてが抱えているはずの?実存的問題?に、何らかの形で貢献すべきものではないか、と前田はいう。たしかに私自身が生きている実存的問題(いかに生きる/死ぬるべきか?ひとは何のために=なぜに生きるか?など)の出発点は、学校の教師や授業というのではなく、学校で扱う文学作品から派生した読書体験にあると言えそうだ。

 両親や祖父母、周囲のひとが使う地域のしゃべり言葉で、自分が生まれ育った地域の過去の人たちとつながり、その文化伝統の流れの中で感じ、考えて生きている事実が前提にあり、その上で漢文学や古代や中世の文学に出会い、小説や現代の評論を読み、やっぱりその死者たちの声を聞いて、感じ考えるということを積み重ねて自己を形成しているというのが、学校教育で文学を学んだ私たちの感覚や思考の履歴と言えるだろうから。

 

 ところで、

 いま考えたいのは、生きているものはすべて、(実存的存在は?)生きている限り、この同じ孤独の条件下にあるということだ(実存的存在である条件は、それぞれが固有の「死」を孕みもちながら生きているということだ)。

 

 さて、ヴァージニア・ウルフが次のようなことを言っています。

 

 私たちがその本に近づいてゆく途中でどんなに曲がりくねり、のらりくらりし、ぐずぐずし、ぶらぶらしようとも、最後には孤独な戦いが私たちを待っている。その先にどんな取引が可能になるとしても、その前に作者と読者の間で処理しなければならない一つの仕事がある。

 

 最後には孤独な戦いが私たちを待っている。…これは「ロビンソン・クルーソー」というタイトルの、その本について論じた随筆です。

……

 ロビンソンは浜辺で足跡を見つける。そして驚く。俺の他に人がいるのか。いや、俺の足跡かもしれない。俺は滑稽にも自分の足跡に怯えているだけかもしれない。でも次の日にまたその場所に行くと、足跡はきれいに消えている。どういうことでしょう。

 これは、「ひとりで見たものは、実は見たことになっていない」ということですね。何か確実と思われるものをまざまざ見ても、そこにその確実性を共有してくれる他人がいない。その他人がその確実性を否定したとしたら、中立的な立場に立ってくれる第三者が必要になります。が、無人島だからそういう人も望めない。自分以外の人がない、ゆえに自分の知覚が自分によってしか保証されない。ということは、それは実は知覚していないというのと同じことになる。するとこのありありと眼前に繰り広げられる光景と、自らの妄想とを分け隔てる線が、不意に掠れ破線のようになって消え果ていってしまう。かくして、ふと恐怖が触れるわけです。無意識の恐怖が。中井久夫氏が言うように、知覚と思考の区別がつかなくなるというのは統合失調症(スキゾフレニー)の本質ですから。(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を―〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』「第一夜文学の勝利」p39‐40より)

 真の孤独は、孤独ななか戦いを続けていることをだれも顧みず、その英雄的な敗北をだれも知ることがないということ(結局知っている誰もがその敗北を知っているのだが、知っている者は知られることがないことを知り、知らなかった者が自ら知ることになる時には人に知ったことを伝えることは不可能だと知ることになるので)。歴史上多くの人が殉じたそういう生き方……それでも生きるに値すると胸を張っていえるだけの人生と、それを支える自己の生きる規範などあるのか。

 孤独の深淵をのぞき込むこと。その無底の深淵を果敢に見つめ、そこから自分の倫理を紡ぎ、生きること、それしかないのでは?という提言なのだろうか。

  すべての者が、ただ一つの戦いを戦っている。(わたしが究極的な問いに攻撃をし掛けられて背後の武器をつかむときには、いろんな武器から選ぶことはできない、選ぶことができたとしても「無縁な」武器を選んでしまうだろう。われわれすべてには武器の備えは一種類しかないからである。)わたしには、自分自身の戦いを戦うことができない。やがて単独行動になったと思い、やがて周囲に誰も見えなくなったとき、わたしは自分にはすぐには、というかそもそも掌握できない全般的戦況のために、この戦闘配置を受け入れざるをえなかったということにいずれはなるのである。このことは、騎兵尖兵、落伍兵、ゲリラ兵、戦争遂行上のあらゆる習慣、奇習が存在することを当然免れない。けれども単独行動の戦争遂行者というものは存在しない。虚栄の〔謙虚さ〕?その通り、しかし必要で真実にかなった勇気づけでもある。(フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』吉田仙太郎訳(平凡社)p88より)

 そのための道具には言葉しかない、というペシミスティックな「励まし」?

四元康佑「トルコ・ハルフェティで連詩を巻く」感想

 

そこで僕は(連詩のルールについて:注引用者)次のようなことを話した。

 連詩には連歌のような細かいルールはないが、その精神は受け継いでいる。一言でいえば我を張らず、相手に合わせるということだ。いかに前の人の詩を深く受け止め、次の人へ思いやりをもって手渡すか。これを「付合」と言う。連詩は共同作業であり、競争でも勝負でもない。だから決して一人だけで完結した傑作を残そうなどと思わず、全体の流れと座の調和を大切にすること。

 そして常に前へ進むこと。同じ主題を繰り返したり、後戻りしてはならない。連詩はオペラなんかと違って完結した劇を作り上げようとはしない。むしろ川の流れが泉からせせらぎとなり、渓流となり、時には滝になったり淀んだりしながら、最後には大河と化して海に注ぎだすように、絶えざる変転変化を楽しむべし。

 さっき付合が大切だといったけど、付け過ぎてはいけない。これは「べた付け」と言って、忌み嫌われるものである。かと言って離れ過ぎても、今度は流れが途切れてしまう。付かず離れず、ちょうどよい頃合をはかること。これを「匂い付け」と称するが、言うは易し、行うは至難の業である。

 あと、連詩連歌も即興芸なので、ある程度の速度が要求される。ひとりで長考されるとリズムが損なわれ、ついには座が流れることも。ジャズのセッションを思い浮かべてもらいたい。速く書くには俳句でいう嘱目、すなわち目の前のものを詠み込む技法も有効だろう。 

 楽しい遊びそのもの。遊びをせんとや生まれけむ。

 そして、

 最後に「うたげと孤心」に触れておきたい。先ほど我を張らず、相手に合わせることが大切だと述べたが、実はそうすればそうするほど、書き手の個性が鮮やかに現れる。いわば「うたげ」においてこそ詩人の「孤心」が露になる。逆に「孤心」の貧しい詩人は、「うたげ」においても輝けない。これは僕の連詩のお師匠さんである大岡信の受け売りだけど、詩歌に限らず日本の古典芸能にあまねく見られる本質的な特徴である。(四元康佑「トルコ・ハルフェティで連詩を巻く」1906月号『すばる』p179より)

 これは人間関係、文化の継承、コミュニケーションのあり方そのもの!

 その理想形はやはり「遊び」ということになるか。

 他人の言葉のミスリーディングを伴いながらも、それを受けて人はまた新たな言葉を紡ぎ、結局終わることなくしゃべり続ける。なぜならそれは「遊び」だから。

 この戯曲(「ゴドーを待ちながら」)は今でも不条理や難解と言われていますよね。しかし、この戯曲は一体何を意味しているんですか、と若い役者に素朴に聞かれたベケットが何と答えたかご存じか。笑いながら、彼はこう言ったそうです―「共生だよ」。(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』「第3夜 読め、母なる文盲の孤児よ―ムハンマドハディージャの革命」p127より)

 まさに「共生」。かくありなむ。

 トルコのハルフェティに集まった詩人たちが、連詩を巻きながら充実した幾日かを過ごし、その最終日に次のようなセリフが披露される。

……

 食事が終わりに近づいた頃、ゴクチェ(トルコの詩人)が居住まいを正して「みんなに言っておきたいことがある」と話し始める。勇介と僕はエスラ(トルコ語の通訳)の口元に耳を近づける。

 「ここにいる僕たちは、いつか死ぬ。遅かれ早かれ、それは誰にも避けられない。僕ら詩人の仕事は、その事実を受け入れながらも、素晴らしい、一回きりの、特別な出来事を体験し、それを言葉で遺すことなのだ。そんな風にして詩人は死を突き抜け、永遠に届こうとする。僕はそう思ってここへやって来た。そしてその願いは叶いつつある。その小さな奇跡への感謝を込めて、乾杯。

 僕は頷きながらグラスを掲げるが、密かに驚いている。ここで連詩を巻いている間、僕も全く同じことを考えて、心の片隅で常に死を意識していたからだ。(四元康佑「トルコ・ハルフェティで連詩を巻く」1906月号『すばる』p187より)

 

 そして私も、この引用をしながら、そうする理由は、日常のそれぞれの体験をしながら、いつも同じように考えていたからだ。私の場合はその手段も含めて。

 それにしても、ここ何日か同じことをずっと考えている気がする。色んな題材を使いながら、同じ所をぐるぐる彽徊している。孤独とそこからの不可能な脱出。死とそこへ向けての生の充実の方途。などとまとめられるか。「特異な生を生きる」とは、どのようなことか。目下私を悩ませている問題である。

 もうちょっと他のこと考えられんのかい!とかとも思うが。

『セロトニン』読みながら

ミシェル・ウェルベックショーペンハウアーとともに』(3)

 世界には努力ではいかんともしがたいクラスの差や国籍の差があり、ウェルベックを読むたびうんざりさせられる。『プラットフォーム』に続き、『セロトニン』を読みながら。

 精神の力に身を委ね、事物に対するいつもの見方を捨てたとしよう。事物相互の関係(その最後の目的はたいてい自分の意志に関わってしまう)を、理性の原則に照らして捉えることをやめてみよう。事物について、どこ、いつ、なぜ、何のため、などと考えずに、ただその本質だけを考えるとしよう。さらには、抽象的思考や理性の原則から意識を解き放ち、精神の全力をあげて直観に身を委ね、直観に没頭し、直接現前する自然の対象を静かに観想することで意識を満たしたとしよう―風景、樹木、岩、建物、何でもかまわない。そうすると、ドイツ語の意味深長な表現で言うところの「対象の中へ自分を失う」という状態になる。つまり、自分という個体、自分の意志を忘れて、純粋な主観、客体を反映する透明な鏡になってみるのだ。すると、あたかも対象だけが存在し、それを知覚する人はいないかのようになる。そうして、直観する人間と直観する行為が分離できなくなって一体となり、ただ一つの直観像によって意識全体がすっかり満たされる。さらには、客体が他の客体とどんな関係も持たなくなったとしよう。そうなると、認識されるのは個別の事物ではなくなり、イデアとなる。永遠の形相である。この段階における意志の直接的な客体性である。そうなるともはや、今まさに直観を行っている人もまた個体ではなくなる。この観照のうちに自分を失ってしまっているからだ。直観を行っている人は純粋な認識主体であり、意志もなければ、苦痛も時間もない。(アルトゥール・ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第三巻第三十四節、ミシェルウェルベックショーペンハウアーとともに』引用)

 あるべき生の形は明確だとしても。なにがそれを邪魔するのか。

 現実の社会のなかに否応なく糧を求めて生きながら、胸くその悪い周囲との関係のなかで自分のポジションを確保するためどうでもいいと信じていることにあくせくして、そして「ともに生きる」人間たちに、どうしようもない嫌悪感を抱きつつ、それでもやはりこのみじめな生、まずしい世界にしがみつく。

 普通の人間、自然がまるで工業製品のように毎日幾千と生み出す人間は、すでに述べた通り、利害を離れて純粋に知覚することができない、少なくとも続けることができない。つまり観照ができないのだ。たとえ事物に注意を向けることがあるにしても、自分の意志と関係が―間接的であれ―あるときだけである。このような物の見方は事物相互の関係の認識のみを要求するため、事物に関する抽象的な概念だけで十分であり、しばしばその方が有用でありさえする。したがって、純粋な直観を長時間続けることはないし、眼差しをある対象に長く留めることもない。眼の前に差し出されるあらゆるものに、それに適合した概念を素早く見つけ出し、あたかも怠惰な人が腰掛けを探すように、概念を見つけてしまえば、それ以上の関心は払わなくなる。さっさと片付けてしまうのだ。(アルトゥール・ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第三巻第三十六節、ミシェルウェルベックショーペンハウアーとともに』引用)

 ふと落ち着いて考えてみれば、私を取り巻いているこの孤独は、絶望的だ。

 

セロトニン

セロトニン

 

 

ほとんど天才という言葉を使ったことのないグールドがリヒテルだけには…

 「幻覚」には別の意味もあります。つまり、ベートーヴェンの弾くベート―ヴェンやモーツァルトの弾くモーツァルトの再現などできようはずもないのだから、演奏はあくまで幻覚だ、という意味です。そもそも再現などできたら音楽生活はずいぶん退屈なものになってしまうでしょう。最高の演奏がひとつだけ存在して、それが何度も繰り返されることになるからです。スヴャトスラフ・リヒテルの営みとは、聞き手と作曲家との間に、自分の強烈なパーソナリティを一種の導管のように挟み込むことであり、そのおかげで私たちは作品を新しく発見し、またかなり多くの場合、日頃慣れ親しんでいる捉え方とは全く違う捉え方ができる。私たちはそんな印象を受けるのです。(『グレン・グールド発言集』p54~55、グレン・グールド (著), ジョン・P・L・ロバーツ (編集), 宮澤 淳一 (翻訳)より)

 読むことについて。上のようなグールドの発言が生まれてくる淵源にあるものとはどのような考え方なのか。「リヒテル=導管」のような解釈行為=解釈格子が読書の中で起動するための歴史的な条件とはどのようなものであったのか。空想的に接続してみる(「意味の「一義性」と「多様性」の対立」つながりとでも呼べばよいか…)。

 小野正嗣は、ラブレーのテクストがどのような背景の中で成立したかを説明する中で、ルネサンス期のヨーロッパでは二つの解釈行為が併存し、ラブレーの「ガルガンテュア」もそんな二つの態度が併存する、解釈学の変動期である一五三〇年頃のフランスで成立したことを説明している。

 それまでキリスト教世界の文化において、古典的テクストの意味はアレゴリー的解釈によって定められ、与えられたいた。すべての意味は「聖書」という、神の言葉によって説明されるのだとして、それでは聖書以前に、つまりキリスト教の誕生以前に書かれた古典ギリシア・ローマのテクストはどう解釈すればいいのか?(「W先生とM先生のラブレー小野正嗣『浦からマグノリアの庭へ』(p49))

 この中世スコラ学的伝統に対してルネサンス期の「文献学」は、どのようなテクストでも、「作品をその産出された歴史的文化的環境の中に位置づけ、正統的なテクストを見つけだし、その特性と意味を理解しようとする。」そして、「読書行為のパラダイムチェンジ」が起こり、イニシアチブが読者に委ねられることになる。「読書は、注釈を手がかりに読者が自ら知識と感性を動員して、作品を解釈し考察する「創造行為」となる」。

 ルネサンス期の文献学「ユマニスト的文献学」によるテクストの注釈は、

過去の作家のスタイルや表現を説明することによって、読み手にまさにそれを「手本」として「模倣」することを促す機能もあった。遠い過去の古典作品を、新しい言語・文化環境に適合させて、再生(ルネサンス)させること。(同p48)

 さらに、「翻訳」とともに「注釈」がつまり「読む行為」が「創造行為」であるという。

 ルネサンス期の注釈の発展は、賞味され研究されるべき「創造的作品・芸術作品」としての「本文テクスト」と「批評」としての「注釈」とのあいだの分離を促進するが(それが十七、十八世紀に「文学」という概念が生まれる素地を作る)、同時に、その境界を曖昧にする傾向も生まれる。注釈行為そのものをテクスト内部に取り込んだ「作品」が生じるのである。モンテーニュの『エセー』は、当時の教養人の習慣にふさわしく、そもそもギリシア・ローマの古典作品を対話の相手として、そうした作品に注釈を加えながら書かれはじめたものだ。他の作品同士を突き合わせて、賛成したり反対したりと議論を展開し、しまいには自分自身の思考を注釈するために古典作品を使うに至る。他者について語ることが自分について語ることになるわけだ。…(「W先生とM先生のラブレー小野正嗣『浦からマグノリアの庭へ』(p49))

 これは読書行為が、広義の創造行為へと展開していくプロセスとも考えることができる。そしてさいごに、小野の本でも言及されるボルヘスの発言から。読む行為の意味について。

 人は二度同じ川に降りていかない、とヘラクレイトスは言いました。だれも二度同じ川に降りていかないとは、流れゆく川の水はつねに変化しているということです。しかし、それにもまして恐ろしいのは、われわれが流れる川に劣らず移ろいやすい存在だということです。われわれが書物を読むと、もはや以前に読んだ本と違っていますし、語の意味も違うものになっています。しかも、書物には過去も詰め込まれているのです。

 これまで私は批評をけなしてきましたが、ここで前言を翻すことにします。ハムレットはもはや、17世紀初頭にシェイクスピアが思い描いたハムレットではありません。それはコールリッジの、ゲーテの、ブラッドリーのハムレットなのです。ハムレットは何度も生まれ変わってきました。キホーテもやはりそうです。ルゴーネスとマルティーネス・エストラーダは『マルティンフィエロ』を取り上げて論評していますが、彼らの『マルティンフィエロ』は同じものではありません。書物は読者によってより豊かなものにされてきたのです。

 古い書物を読むということは、それが書かれた日から現在までに経過したすべての時間を読むようなものです。…(J・L・ボルヘス『語るボルヘス』「書物」より)

 さらに、それに付け加えて、かつて読んだ書物を再読するということは、自分がかつて読んだ日から現在までに経過したすべての時間(の自分自身の履歴)を読むようなものでもあります。いまそれを、『カラマーゾフの兄弟』を再読しながら実感しています。

 人は再読するためには一度目に読まなくてはならない(ボルヘス

 今日は、ラブレーからモンテーニュ、そしてボルヘス、グールドへ仮想的な補助線を引いてみた。

毎日新聞 書評メモ つづき

 数百万人以上の犠牲を出した独ソ戦はなぜ始められたのか。藻谷浩介の書評から。

…そもそもヒトラーには、旧ソ連の住民を死に追いやってドイツ人植民者に食糧を生産させるとの、恐るべき妄想があった(世界観戦争)。だが著者はそれとは別に、ドイツ軍の指導部にも、旧ソ連の資源、食料、労働力を根こそぎ収奪するという、冷酷な戦争目的があったことを指摘する(収奪戦争)。無理を重ねて軍備を増強したツケで、ドイツは深刻な物資と労働力の不足に見舞われていたのだ。だからこそ旧ソ連側も死を賭して反撃し、勝てば残虐な報復に出た。

 だが元をたどれば、そのような軍備増強自体、「他民族から収奪しなければドイツ人は生存していけない」という、ヒトラードイツ国民が共有した妄想に基づいていた。無用の妄想から生まれた無用の軍備が、無用の戦争を生み、無用の消耗を生んで、さらに無用の収奪を生むという悪循環は、程度は違えど日中戦争にもあるだろう。皮肉にも敗戦で妄想を捨てたからこそ、ドイツと日本は、戦後に空前の経済的繁栄を遂げたのである。(藻谷浩介「毎日新聞」書評、大木毅『独ソ戦』(岩波新書)、「無用の軍備が招いた悪循環」より)

  妄想の相乗効果で途方もない帰結が惹き起こされる。現在の日本の国防問題はどのような動機に牽引されて議論され、軍備増強を目指しているのか。第二次大戦期のような、妄想とはいえ理屈の通った、少なくとも多くの国民にリアルに感じられるほどの根拠もないのではないか。

 さらに、「この3冊」大西康之・選「カルロス・ゴーン」から。

 なぜ日産には「絶対的権力者」と呼ばれるような人物(カルロス・ゴーンや塩路一郎)が現れるのか。ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』を引きながら。

…人間が「カリスマ」を生んでしまうのは現在の人類と同じホモ・サピエンスが身につけた認知的能力に由来するらしい。我らホモ・サピエンスは神話や守護神といった虚構を生み出し、共通の虚構を信じることで何百人、何千人という規模の協力を可能にした。

 虚構による協力でホモ・サピエンスは繁栄したが、幸福になったかどうかは別問題。…(毎日新聞・書評「この3冊」大西康之・選「カルロス・ゴーン」より)

  ニーチェの云う「人間の生存に不可欠の誤謬としての真理」の類か。それらが大規模に複雑に作動して、現代世界の錯綜した様相を形づくっている。いつの時代も個人はその中で、流れに迎合するか、さもなければ翻弄され廃棄されるか、で、「救いの天使」も、すべてが終わってから地上に舞い降りて、これらの人びとがただ無意味に廃棄された事実だけを歴史に書き込むだけ。

 

 

説得を妨げる確証バイアス 『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』書評

 15年のアメリカ共和党候補者討論会で、ドナルド・トランプが当時の有力候補で小児科医のベン・カーソンに「自閉症MMRワクチン接種のせい」と発言し、その場面を視聴していた科学者である著者(ターリ・シャーロット)でさえ一瞬パニックになり、聴衆にとっても説得的な説明と受けとられたことについて、「なぜカーソンの科学的な説明よりもトランプの説明の方が説得的なのだろうか。」という事実に対する評者の説明。

 人は状況をコントロールしたいという根源的欲求を持っているが、コントロールを失う不安を巧みに利用した。また、他人の失敗を例にあげて感情を誘発することで、脳の活動パターンを自分と同期させ、彼の視点でものを見るように仕向けた。一般には、ひとを説得する方法として、不安よりも希望をもたらす方がうまくいくが、例外がある。何もしないようにさせることと、説得相手がすでに不安な状態にある場合だ。(「毎日新聞」9月22日(日)朝刊、大竹文雄「『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』(ターリ・シャーロット著)書評」より)

 他人の意見を聞いて、「一理ある」と反対意見に対しても寛容になれるのは、対立している意見の持ち主に同期する能力と言えなくもないが… 

 そして、本書で取り上げられている一般的な問題「確証バイアス」について、

 統計的な数字というエビデンスを用いた説得が必ずしもうまくいかないのはなぜだろうか。著者は、人々には自分がもっている信念と一致した情報を集めるという確証バイアスが存在することを理由にあげる。特に、インターネットでは様々な情報が簡単に得られるので、自分がもともと信じていたことと整合的な情報だけを集めて、反対する情報は無視することができる…

確証バイアス(かくしょうバイアス、英: confirmation bias)とは、認知心理学社会心理学における用語で、仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと。認知バイアスの一種。また、その結果として稀な事象の起こる確率を過大評価しがちであることも知られている。(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 本書では、ではどのようにすれば、人の意見を変え、正しい行動に促すことができるのかが語られることになるが、わたしにとってはこの本が、前回話題にした周囲の人たちの非論理的な傾向=愚かさについての、心理学的な説明根拠となるのでは?という印象を与える者だった。しかし結局それは自分自身の判断や行動の正しさに戻ってくる批判ともなるだろう。

 先週も「消費税増税」に対する賛成意見を探したがなかなか見つけられずにいて、そもそもが、「賛成意見」などあるのだろうか?反対意見のデータの豊富さや論理的整合性の精緻さと比較して、きちんと論理的に納得できる根拠はないのではないか?などと考えて不審に感じたりもしたが。もともと読む新聞や雑誌、ネット上の情報も、信頼している論者も含めて、自分の価値観に一致した、自分の意見を支持する情報ばかりを無意識に選択して、そればかりを根拠にしていろいろな出来事を判断しているとしたら、自分の意見に反する、信頼性の高い情報を見つけられないことにも納得がいく。

 自らの認知バイアスに自覚的になることの重要さ…愚かさの回避……とりあえずは、本書に目を通して、それから。