アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

ほとんど天才という言葉を使ったことのないグールドがリヒテルだけには…

 「幻覚」には別の意味もあります。つまり、ベートーヴェンの弾くベート―ヴェンやモーツァルトの弾くモーツァルトの再現などできようはずもないのだから、演奏はあくまで幻覚だ、という意味です。そもそも再現などできたら音楽生活はずいぶん退屈なものになってしまうでしょう。最高の演奏がひとつだけ存在して、それが何度も繰り返されることになるからです。スヴャトスラフ・リヒテルの営みとは、聞き手と作曲家との間に、自分の強烈なパーソナリティを一種の導管のように挟み込むことであり、そのおかげで私たちは作品を新しく発見し、またかなり多くの場合、日頃慣れ親しんでいる捉え方とは全く違う捉え方ができる。私たちはそんな印象を受けるのです。(『グレン・グールド発言集』p54~55、グレン・グールド (著), ジョン・P・L・ロバーツ (編集), 宮澤 淳一 (翻訳)より)

 読むことについて。上のようなグールドの発言が生まれてくる淵源にあるものとはどのような考え方なのか。「リヒテル=導管」のような解釈行為=解釈格子が読書の中で起動するための歴史的な条件とはどのようなものであったのか。空想的に接続してみる(「意味の「一義性」と「多様性」の対立」つながりとでも呼べばよいか…)。

 小野正嗣は、ラブレーのテクストがどのような背景の中で成立したかを説明する中で、ルネサンス期のヨーロッパでは二つの解釈行為が併存し、ラブレーの「ガルガンテュア」もそんな二つの態度が併存する、解釈学の変動期である一五三〇年頃のフランスで成立したことを説明している。

 それまでキリスト教世界の文化において、古典的テクストの意味はアレゴリー的解釈によって定められ、与えられたいた。すべての意味は「聖書」という、神の言葉によって説明されるのだとして、それでは聖書以前に、つまりキリスト教の誕生以前に書かれた古典ギリシア・ローマのテクストはどう解釈すればいいのか?(「W先生とM先生のラブレー小野正嗣『浦からマグノリアの庭へ』(p49))

 この中世スコラ学的伝統に対してルネサンス期の「文献学」は、どのようなテクストでも、「作品をその産出された歴史的文化的環境の中に位置づけ、正統的なテクストを見つけだし、その特性と意味を理解しようとする。」そして、「読書行為のパラダイムチェンジ」が起こり、イニシアチブが読者に委ねられることになる。「読書は、注釈を手がかりに読者が自ら知識と感性を動員して、作品を解釈し考察する「創造行為」となる」。

 ルネサンス期の文献学「ユマニスト的文献学」によるテクストの注釈は、

過去の作家のスタイルや表現を説明することによって、読み手にまさにそれを「手本」として「模倣」することを促す機能もあった。遠い過去の古典作品を、新しい言語・文化環境に適合させて、再生(ルネサンス)させること。(同p48)

 さらに、「翻訳」とともに「注釈」がつまり「読む行為」が「創造行為」であるという。

 ルネサンス期の注釈の発展は、賞味され研究されるべき「創造的作品・芸術作品」としての「本文テクスト」と「批評」としての「注釈」とのあいだの分離を促進するが(それが十七、十八世紀に「文学」という概念が生まれる素地を作る)、同時に、その境界を曖昧にする傾向も生まれる。注釈行為そのものをテクスト内部に取り込んだ「作品」が生じるのである。モンテーニュの『エセー』は、当時の教養人の習慣にふさわしく、そもそもギリシア・ローマの古典作品を対話の相手として、そうした作品に注釈を加えながら書かれはじめたものだ。他の作品同士を突き合わせて、賛成したり反対したりと議論を展開し、しまいには自分自身の思考を注釈するために古典作品を使うに至る。他者について語ることが自分について語ることになるわけだ。…(「W先生とM先生のラブレー小野正嗣『浦からマグノリアの庭へ』(p49))

 これは読書行為が、広義の創造行為へと展開していくプロセスとも考えることができる。そしてさいごに、小野の本でも言及されるボルヘスの発言から。読む行為の意味について。

 人は二度同じ川に降りていかない、とヘラクレイトスは言いました。だれも二度同じ川に降りていかないとは、流れゆく川の水はつねに変化しているということです。しかし、それにもまして恐ろしいのは、われわれが流れる川に劣らず移ろいやすい存在だということです。われわれが書物を読むと、もはや以前に読んだ本と違っていますし、語の意味も違うものになっています。しかも、書物には過去も詰め込まれているのです。

 これまで私は批評をけなしてきましたが、ここで前言を翻すことにします。ハムレットはもはや、17世紀初頭にシェイクスピアが思い描いたハムレットではありません。それはコールリッジの、ゲーテの、ブラッドリーのハムレットなのです。ハムレットは何度も生まれ変わってきました。キホーテもやはりそうです。ルゴーネスとマルティーネス・エストラーダは『マルティンフィエロ』を取り上げて論評していますが、彼らの『マルティンフィエロ』は同じものではありません。書物は読者によってより豊かなものにされてきたのです。

 古い書物を読むということは、それが書かれた日から現在までに経過したすべての時間を読むようなものです。…(J・L・ボルヘス『語るボルヘス』「書物」より)

 さらに、それに付け加えて、かつて読んだ書物を再読するということは、自分がかつて読んだ日から現在までに経過したすべての時間(の自分自身の履歴)を読むようなものでもあります。いまそれを、『カラマーゾフの兄弟』を再読しながら実感しています。

 人は再読するためには一度目に読まなくてはならない(ボルヘス

 今日は、ラブレーからモンテーニュ、そしてボルヘス、グールドへ仮想的な補助線を引いてみた。