アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

『セロトニン』読みながら

ミシェル・ウェルベックショーペンハウアーとともに』(3)

 世界には努力ではいかんともしがたいクラスの差や国籍の差があり、ウェルベックを読むたびうんざりさせられる。『プラットフォーム』に続き、『セロトニン』を読みながら。

 精神の力に身を委ね、事物に対するいつもの見方を捨てたとしよう。事物相互の関係(その最後の目的はたいてい自分の意志に関わってしまう)を、理性の原則に照らして捉えることをやめてみよう。事物について、どこ、いつ、なぜ、何のため、などと考えずに、ただその本質だけを考えるとしよう。さらには、抽象的思考や理性の原則から意識を解き放ち、精神の全力をあげて直観に身を委ね、直観に没頭し、直接現前する自然の対象を静かに観想することで意識を満たしたとしよう―風景、樹木、岩、建物、何でもかまわない。そうすると、ドイツ語の意味深長な表現で言うところの「対象の中へ自分を失う」という状態になる。つまり、自分という個体、自分の意志を忘れて、純粋な主観、客体を反映する透明な鏡になってみるのだ。すると、あたかも対象だけが存在し、それを知覚する人はいないかのようになる。そうして、直観する人間と直観する行為が分離できなくなって一体となり、ただ一つの直観像によって意識全体がすっかり満たされる。さらには、客体が他の客体とどんな関係も持たなくなったとしよう。そうなると、認識されるのは個別の事物ではなくなり、イデアとなる。永遠の形相である。この段階における意志の直接的な客体性である。そうなるともはや、今まさに直観を行っている人もまた個体ではなくなる。この観照のうちに自分を失ってしまっているからだ。直観を行っている人は純粋な認識主体であり、意志もなければ、苦痛も時間もない。(アルトゥール・ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第三巻第三十四節、ミシェルウェルベックショーペンハウアーとともに』引用)

 あるべき生の形は明確だとしても。なにがそれを邪魔するのか。

 現実の社会のなかに否応なく糧を求めて生きながら、胸くその悪い周囲との関係のなかで自分のポジションを確保するためどうでもいいと信じていることにあくせくして、そして「ともに生きる」人間たちに、どうしようもない嫌悪感を抱きつつ、それでもやはりこのみじめな生、まずしい世界にしがみつく。

 普通の人間、自然がまるで工業製品のように毎日幾千と生み出す人間は、すでに述べた通り、利害を離れて純粋に知覚することができない、少なくとも続けることができない。つまり観照ができないのだ。たとえ事物に注意を向けることがあるにしても、自分の意志と関係が―間接的であれ―あるときだけである。このような物の見方は事物相互の関係の認識のみを要求するため、事物に関する抽象的な概念だけで十分であり、しばしばその方が有用でありさえする。したがって、純粋な直観を長時間続けることはないし、眼差しをある対象に長く留めることもない。眼の前に差し出されるあらゆるものに、それに適合した概念を素早く見つけ出し、あたかも怠惰な人が腰掛けを探すように、概念を見つけてしまえば、それ以上の関心は払わなくなる。さっさと片付けてしまうのだ。(アルトゥール・ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第三巻第三十六節、ミシェルウェルベックショーペンハウアーとともに』引用)

 ふと落ち着いて考えてみれば、私を取り巻いているこの孤独は、絶望的だ。

 

セロトニン

セロトニン