アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

さいごの孤独なたたかいに向けて

 『すばる』7月号で、特集「教育が変わる、教育を変える」が組まれ、そこで「高校国語」が大幅に変更され、「文学」を全く扱わなくなる方針の高校の教育課程改革について、作家、研究者がインタビュー・対談・論考で自説を述べあっている。そのなかから、前田英樹の本質を突いた発言に、そもそもわれわれの誰もが置かれている言語的環境…宿命?に思いを馳せる、という気分になる。

 軍事や科学技術や経済効果の拡大、増幅に狂奔する社会しか生きるべき世はない、と信じ切っている人間たちは、母語の働きに養われる喜びから遠く突き放された者たちである。だが、彼らもまた人間である以上、言葉と意識とがひとつになった心の重荷を持ち、やがては独りで死んでいく自分の未来をはっきりと知っているだろう。現実社会の競争に勝ったり負けたりの自分が、さて一体何だったのかをふと思い、死んでも死に切れぬ歎きを抱いてこの世を去っていくこともあろう。子供のころからの学校の学びが、このような事実に対して一切何の役にも立たないのだとしたら、そこに有用な教育があるといえるのだろうか。(前田英樹母語のうちの何を学ばせるのか」(『すばる』2019.7月号)より)

 国語教育あるいは学校教育は、上のような(大江健三郎的に言えば「魂のこと」とでもいえるような)私たちのすべてが抱えているはずの?実存的問題?に、何らかの形で貢献すべきものではないか、と前田はいう。たしかに私自身が生きている実存的問題(いかに生きる/死ぬるべきか?ひとは何のために=なぜに生きるか?など)の出発点は、学校の教師や授業というのではなく、学校で扱う文学作品から派生した読書体験にあると言えそうだ。

 両親や祖父母、周囲のひとが使う地域のしゃべり言葉で、自分が生まれ育った地域の過去の人たちとつながり、その文化伝統の流れの中で感じ、考えて生きている事実が前提にあり、その上で漢文学や古代や中世の文学に出会い、小説や現代の評論を読み、やっぱりその死者たちの声を聞いて、感じ考えるということを積み重ねて自己を形成しているというのが、学校教育で文学を学んだ私たちの感覚や思考の履歴と言えるだろうから。

 

 ところで、

 いま考えたいのは、生きているものはすべて、(実存的存在は?)生きている限り、この同じ孤独の条件下にあるということだ(実存的存在である条件は、それぞれが固有の「死」を孕みもちながら生きているということだ)。

 

 さて、ヴァージニア・ウルフが次のようなことを言っています。

 

 私たちがその本に近づいてゆく途中でどんなに曲がりくねり、のらりくらりし、ぐずぐずし、ぶらぶらしようとも、最後には孤独な戦いが私たちを待っている。その先にどんな取引が可能になるとしても、その前に作者と読者の間で処理しなければならない一つの仕事がある。

 

 最後には孤独な戦いが私たちを待っている。…これは「ロビンソン・クルーソー」というタイトルの、その本について論じた随筆です。

……

 ロビンソンは浜辺で足跡を見つける。そして驚く。俺の他に人がいるのか。いや、俺の足跡かもしれない。俺は滑稽にも自分の足跡に怯えているだけかもしれない。でも次の日にまたその場所に行くと、足跡はきれいに消えている。どういうことでしょう。

 これは、「ひとりで見たものは、実は見たことになっていない」ということですね。何か確実と思われるものをまざまざ見ても、そこにその確実性を共有してくれる他人がいない。その他人がその確実性を否定したとしたら、中立的な立場に立ってくれる第三者が必要になります。が、無人島だからそういう人も望めない。自分以外の人がない、ゆえに自分の知覚が自分によってしか保証されない。ということは、それは実は知覚していないというのと同じことになる。するとこのありありと眼前に繰り広げられる光景と、自らの妄想とを分け隔てる線が、不意に掠れ破線のようになって消え果ていってしまう。かくして、ふと恐怖が触れるわけです。無意識の恐怖が。中井久夫氏が言うように、知覚と思考の区別がつかなくなるというのは統合失調症(スキゾフレニー)の本質ですから。(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を―〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』「第一夜文学の勝利」p39‐40より)

 真の孤独は、孤独ななか戦いを続けていることをだれも顧みず、その英雄的な敗北をだれも知ることがないということ(結局知っている誰もがその敗北を知っているのだが、知っている者は知られることがないことを知り、知らなかった者が自ら知ることになる時には人に知ったことを伝えることは不可能だと知ることになるので)。歴史上多くの人が殉じたそういう生き方……それでも生きるに値すると胸を張っていえるだけの人生と、それを支える自己の生きる規範などあるのか。

 孤独の深淵をのぞき込むこと。その無底の深淵を果敢に見つめ、そこから自分の倫理を紡ぎ、生きること、それしかないのでは?という提言なのだろうか。

  すべての者が、ただ一つの戦いを戦っている。(わたしが究極的な問いに攻撃をし掛けられて背後の武器をつかむときには、いろんな武器から選ぶことはできない、選ぶことができたとしても「無縁な」武器を選んでしまうだろう。われわれすべてには武器の備えは一種類しかないからである。)わたしには、自分自身の戦いを戦うことができない。やがて単独行動になったと思い、やがて周囲に誰も見えなくなったとき、わたしは自分にはすぐには、というかそもそも掌握できない全般的戦況のために、この戦闘配置を受け入れざるをえなかったということにいずれはなるのである。このことは、騎兵尖兵、落伍兵、ゲリラ兵、戦争遂行上のあらゆる習慣、奇習が存在することを当然免れない。けれども単独行動の戦争遂行者というものは存在しない。虚栄の〔謙虚さ〕?その通り、しかし必要で真実にかなった勇気づけでもある。(フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』吉田仙太郎訳(平凡社)p88より)

 そのための道具には言葉しかない、というペシミスティックな「励まし」?