アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

それはあまりに人間的な…

 世のひとは、あまりにもどうでもよいことにムキになり、それがさも重大事であるかのように騒ぎ立て、挙句の果てにそれがじぶん自身演技だったことも忘れ、ノリで乗っていたことを忘れ、本当はそもそも何が大事なことだったのかもわからなくなる。それが現代人多くの症状であり、それはあまりに人間的といえばいえる。現代は歴史的条件が整ってしまったのだ。だれもが罹る伝染性の病。芸能プロダクションの不祥事や有名人の不倫、ドラッグの問題。当事者にとって意味がないとはまでは言わないが、あなたにとっての問題はそのことじゃなく、お金のこと?人間関係のこと?……それもでも「ほんとうの問題」なのかどうか…判断基準を失い、そのつどそのつどの出来事にじぶんの感覚をシンクロさせていく。それがわたしたちの日常、日々の生活、そして人生になっている。ひとが騒ぎ立てる問題に、じぶんの今を当てはめて、じぶん自身の生活をチェックして、気分が上がったり下がったりして、それがあなたの人生の時間を構成している。だが、ほんとうの問題は、あなたに言葉が不足していること、言葉が貧しいのだ。そしてあなたに言葉があっても、あまりに忙しくしすぎているので、その言葉を操って、ほんとうの問題を見えるようにすることができない。その作業はだれも手伝ってはくれないし、むしろ世の中には、あなたがそうすることを邪魔してくるひとばかり。

オーウェルは我々から情報を奪うものを恐れた」とニール・ポストマン(『愉しみながら死んでいく』1985)は記した。「ハクスリーは、我々が受動性とエゴイズムに陥るまでに多くを与える者を恐れた。オーウェルは真実が我々から隠されることを危ぶんだ。ハクスリーは無意味なものだらけの海に真実が溺れることを危ぶんだ」。

 ポストマンが言うには、ハクスリーのディストピアは二〇世紀後半に既に実現しつつあった。全体主義国家に対するオーウェルの懸念がソ連に当てはまる一方で、西側リベラル民主主義国家への脅威(これが一九八五年のことだったと覚えておいてほしい)は「あからさまにつまらない事柄によって麻痺するあまりに、責任ある市民として関与できない人々をめぐるハクスリーの悪夢によって象徴されているとポストマンは主張した。

 ポストマンによるこれらの考察は時代を先取りしており、ジョージ・ソーンダーズによって繰り返されることになる。二〇〇七年のエッセイ『The Braindead Megaphone(脳死のメガフォン)』で彼は、全国規模の会話がO.J.シンプソンやモニカ・ルインスキーを扱う長年の報道によって危険なほど堕落したと論じた。我々の国単位の言語は俗物化され、同時に「攻撃的で、不安を呼び起こし、感傷的で、対立を煽る」あまり、イラクを侵略しようかと真剣な議論を試みる時が訪れた頃には「我々は無防備だった」と彼は述べた。我々が手にしていたのは、「O・Jなどを論じるために使っていた未熟で誇張的な道具一式」だけだった。それは彼がメガホン男と呼ぶ、耳障りな知ったかぶりの何も分かっていない人物が叫ぶ戯言だ。そのハンドマイクは知能レベルが「バカ」、音量が「すべての他者をかき消す」に設定されている。

(ミチコ・カクタニ『真実の終わり』岡崎玲子訳(集英社)p136)

 

真実の終わり