アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

フランス「バカロレア」哲学教育の必要性 「単なる社会の歯車としての人間」に抗して

折々のことば:1409 鷲田清一

「自分の権利を擁護することは、自分の利益を擁護することだろうか?」「自分自身の文化から自由になれるだろうか?」(フランスの大学入学資格試験問題)  

 フランスの知人に、貴国ではなぜ高校で哲学教育を重視するのかと質問したら、「例えば公務員。誰もが幸福に暮らせる社会をめざす者が、幸福の何たるかを考えたことがなければどうなる」との当然すぎる返答。ちなみに2017年の記述式問題は右のごとし。しかもこれ、理系の課題。哲学研究者、坂本尚志の『バカロレア幸福論』から。(190321朝日新聞朝刊)

 

 

Q:「自分の権利を擁護することは、自分の利益を擁護することだろうか?」

A:「たとえば、ある場所にゴミを捨てる人が多いので、ゴミ捨てに料金を課したとします。これは、二酸化炭素排出権がコストのかかる商品になった、という状況と同じです。課金があるので、ごみを捨てる人が少なく

なるかと思うと、必ずしもそうではない。場合によっては、逆に、ゴミを捨てる人が増えてしまうのです。どうしてなのか。ゴミ捨てに課金されているということは、ゴミ捨てが、その人にとっての正当な権利だということになってしまうからです。課金がないときは、それは後ろめたい非倫理的な行動だった。しかし、金で買うことができるならば、自分に正当に帰属する自由の一部です。そう意味づけが変わることで、今までよりも気楽にゴミ捨てができるようになってしまうわけです。」(大澤真幸発言;

1903『群像』「自由・中動態・責任」大澤真幸×國分功一郎対談より)

という答えなど可能だろうか。

 新たに設定された「権利」の擁護、つまり「ゴミを捨てる権利」によって、ゴミの総量が増えれば、そこに使われる税金や環境汚染など、公共のロスが「自分の利益」を奪うものとなると考えられる。上のAnswerで引用した大澤の議論は、「倫理的目的が市場的目的にすり替えられた場合、結果が変わらなければ問題ないが、実際には当事者にとっての行為の意味の変化は、結果の変化を招来する」という議論での例であるが、マクロな経済政策を考える場合にも、哲学という教科で扱う問題に対する考察が有効であることを示している。

『社会学を学ぶ』つづき ル・ボン

 ギュスターヴ・ル・ボンは、群衆の台頭する時代を破壊と混乱の相で見ていた(『群集心理』)。ル・ボンは、群衆のなかに、個人の心理や判断力を超えた一つの集団的な心理の成立を見る。ル・ボンによれば、この群衆の心理は、衝動的で興奮しやすいこと、暗示を受けやすく、物事を軽々しく信じること、感情が誇張され単純であること、偏狭で横暴で保守的であることなどを特徴としている。群衆は理性によって動かされず、「心象」に基づいて思考し、しかもこの心象は相互に何の連絡もなく、相次いで生じるという。ル・ボンも群衆の出現に野蛮な混乱状態への回帰を見ていたが、同時に彼は、群衆の力が老朽期に入った文明の「破壊作用」として機能するという視点を持っていた。

内田隆三社会学を学ぶ』(ちくま新書)「第8章ヴァルター・ベンヤミン」p228より)

  オルテガ『大衆の反逆』の「大衆」の定義へとつながっていく視点であり、現代の「ポピュリズム」の問題を考える上で(つまり、自分たちの周囲の生活環境について考えるときにも)不可欠の概念と考えられる。

 

 都市住民の無個性化、非個性化、〈昆虫〉化への納得のいく考察でもある。

 

つづく

もう「大衆の反逆」見たかい?

エドガー・アラン・)ポーにとって群衆は野蛮な何かであり、「規律」を受け入れるとしてもそれは表面的である。画家のジェームズ・アンソールは謝肉祭を思わせるような群衆の光景のなかに「軍隊」を描きこんだが、それは群衆が何を代補されるべき存在であるのかを、すなわち全体主義へ移行する危うい道筋があることを暗示していた。

 ポール・ヴァレリーは、文明史的な観点から、大都市の住民はかえって野生状態、すなわち孤立状態に逆戻りするという。なぜなら社会的な機構の完備は、かつては必要上たえず呼び覚まされていた、諸個人の絆にもとづく感情を失わせ、共同生活に対する態度や感受性や行為の様式を無効にしていくからである。ヴァレリーは、大都市を生きる人間のなかに、便利な社会機構への依存と表裏をなすように、一種の「野生状態」や「孤立状態」への逆戻りが見られるのを感じ取っていたのである。

内田隆三社会学を学ぶ』(ちくま新書)p227より)

 

つづく

世界史の実験

柄谷行人『世界史の実験』(岩波新書)読了。一連の柳田國男に関する論考・エッセイを集めた続編。タイトルの意味が分かると、非常に射程の長く、刺激的な論であることがわかる。

 日本近世史でいう「武士と農民の分離」や、インドのカースト制での「身分への疎外」によって、境界のなかったものに明確な境界を設け、その流動性が失われたことを、人類史的視点から考察。自身の交換論へとつなぐ。

例えば、ネアンデルタール人や日本狼の絶滅についても、二分法的固定的思考によってではなく、マルクスの云う「抽象力」(思考実験)によって捉えることができると主張する。

以下に参考文献:

 

世界史の実験 (岩波新書 新赤版 1762)

世界史の実験 (岩波新書 新赤版 1762)

 

 

遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)

遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)

 

 

 

 

 

憲法の無意識 (岩波新書)

憲法の無意識 (岩波新書)

 

 

 

 

世界史の構造 (岩波現代文庫)

世界史の構造 (岩波現代文庫)

 

 

哲学の起源

哲学の起源

 

 

全体主義の起源

 ナチの犯罪、戦争と敗北の現実は生活の構造全体を覆ったが、ドイツ人は自らにとってショッキングな衝撃をかわすさまざまな工夫をこらしていた、とアーレントは見た。「死の工場の現実性」を他の国民もしうるようなことをしたにすぎないという「たんなる可能性」に変換したり、陰謀説によって「元気づけ」たり、次の戦争ではヨーロッパ中の都市がドイツの諸都市のような目に遭うだろうと曖昧な予測を述べたり、といった現実逃避である。真実から逃れ自分を欺く自己欺瞞である。しかも、そうした逃避のなかで「最も印象的でぞっとする点は」、多くの人びとが「事実をあたかも意見にすぎないかのように扱う習慣」であった。また、彼女が出会った一人の女性は、他のことでは「ふつうに知的」であるにもかかわらず、第二次世界大戦の始まりについて、まったく誤った情報を信じていた。アーレントは次のように続けている。

  

すべてのひとは自分の意見をもつ権利があるという口実のもとにすべてのひとは無知である権利をもつのであり―また、その背後には、意見は本当は問題ではないという暗黙の想定がある。これがまさに重大であるのは、ただそれによってしばしば議論がどうしようもないものになる(ひとはどこにでも参考文献をたずさえていくわけではない)というばかりでなく、何よりもまず、平均的なドイツ人はこうした何の規制もない討論、事実に対するニヒリスティックな相対性がデモクラシーの本質であると心底信じているからである。もちろんこれはナチ体制の遺産である。

ハンナ・アーレント全体主義の起源全体主義』より)

 事実が意見であるかのように扱われ、意見への権利が無知である権利となり、その背後に意見は重要ではないという想定があるとしたら、もはや人びとの共通のよりどころ、頼りとすべきVerlaßはなくなるのではないだろうか。現実逃避や自己欺瞞は「見捨てられていること」Verlassenheitに連動する。     (矢野久美子「アーレントを読む1生きた屍」より)

 「ポストトゥルース」やさらにもっと根源にまで遡って、「ニヒリズム」の問題について論じようとしていることは明らかで、「ドイツ人」や「ナチ体制」を、「日本人」と「総動員体制」に置き換えてみれば、我々の今日の状況に、あるいはこの70年、150年の来し方に符合する。

 アレントも同じように、歯痒さと危機感とを感じていたのだろうし、矢野久美子という研究者の向いている方向も明確になる、気がする。

 例えば、日韓問題における「慰安婦問題」や「徴用工問題」についても、藤原帰一朝日新聞(2月23日朝刊)指摘している視点から考えることすらできてない人が多いだろう。

矛盾がないというのは感情の満足ですね。岡潔

 最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない二つの命題をともに仮定しても、それが矛盾しないという証明が出たのです。だからそういう実例をもったわけなんですね。それはどういうことかというと、数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学だとはいえないということがはじめてわかったのです。じっさい考えてみれば、矛盾がないというのは感情の満足ですね。人には知情意と感覚がありますけれども、感覚はしばらく省いておいて、心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。だから、その意味で、知とか意とかがどう主張したって、その主張に折れたって、情が同調しなかったら、人はほんとうにそうだとは思えませんね。そういう意味で私は情が中心だといったのです。そのことは、数学のような知性のもっとも端的なものについてだっていえることで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足をあたえるためには、知性がどんなにこの二つの仮定には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力なんです。(『人間の建設』岡潔×小林秀雄p39,40)

無矛盾性と感情との関係について

「納得できる」というのはどういう状態のことなのかという問題

この岡潔のいう「感情」はいったい誰のものなのかという疑問が湧いてきます。

その問いに対する解答へ至るためのヒント(になりそうな考え方)

…わたしの感覚は、わたしに知覚される風景との対応関係を集めた辞書のようなもので、その壮大な辞書に基づき、わたしは、わたしの感覚を自己判断する、かのように思えるのです。知覚された私の風景が原因となって、感覚・感情をもたらす時、逆に感覚・感情は原因を指し示す。これがその、対応関係の意味するところです。

 このことは、感覚・感情が、最終的なタグ(単なる札)となっていること、タグをもたらすまでの、わたしの様々な微妙な感覚も、最終的なタグの原因とみなされること、を意味します。おばあさんの方に歩いていくトレホを見て、あれ、何をするつもりなんだ、大丈夫か、危害を加えないよな、おや、まさか、逆にいい人だった、と続く心の細かな動きや、これに伴う動悸や安堵、それらが最終的に「安堵感・余裕」とタグづけされた時、逆に「安堵感・余裕」によって説明されるのは、そこに至る現象の全体、ということになるのです。(郡司ペギオ幸夫『天然知能』2サワロサボテン)

 

 これは「感情」の生成プロセスについての説明で、郡司の主張する一・五人称的知性以前の、主観的感覚に基礎づけられた一人称的意識が、三人称化されるプロセスの説明です。

 ただこれは、ここで岡がいう意味での「感情」ではない、というネガティブな例となっています。

 また、

 共鳴、親愛、納得、熱狂、うれしさ、驚嘆、ありがたさ、勇気、救い、融和、同類、不思議などと、いろいろの言葉を案じてみましたけど、どれも皆、気にいりません。重ねて、語彙の貧弱を、くるしく思ひます。(太宰治『風の便り』佐竹昭広「意味変化について」引用)

 太宰の云うこの名付けがたい「感情」、どのような語によっても表現し切れたという感じのしない「感情」と上の岡の云う「感情」とが関連している予感があるのですが、まだ十分に思考が展開されていません。

 

 これらが最近考えている「特異性」の問題と関連している予感がするのです。

                                    つづく