アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

愚かさについて(3) 

賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている。                   オルテガ・イ・ガセット

 鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』「「摩擦」の意味―知性的であるということについて」では、ひと(政治、社会)が陥りがちな性向について指摘する。

 周囲を見回しても、普段は「話し合いが大切だ」とか、「議論がないまま上からの命令で事を進めるのは間違っている」、「理屈ではなく声の大きさがまかり通っている」などと、論理や議論をおざなりにする姿勢を批判する人は多い。劣勢の弱者に属すると感じている場合そんな姿勢をとる。しかし、その人たちも自分自身の好みや、価値観と一致する意見に同調したり、その考えを(無意識にだろうが)人に押し付けたいと感じたとき(潜在的にマジョリティに帰属する感覚がある時…たぶん)には、「これは理屈じゃない」とか、「論理じゃなくて好みの問題」とか、視点を変えて強者の側から、劣勢の弱者に対する想像力を全く欠いている状態にある人たち、しかもそのことに無自覚なひとたちが多いことに気づく。弱者の人権を守ろうと活動する人にもそのような人はいる。自己の論理的態度に対する(ほどよい)無自覚と、活動への情熱の強さとは表裏なのだろうか、などと意地悪な見方をしてしまう。弱者が強者に転じたとき、どのようなことが起こるかは、歴史が証明するところだ。

 オルテガが「大衆の反逆」ということを口にしたのは、「自分の思想の限られたレパートリーの中に決定的に住みついてしまう」性向、もっといえば、「理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断固として強制しようとする」、そういう性向を、ひとが羞じるどころか逆に当然の権利として主張するような大きな傾向を、1930年の時点で社会にひしひしと感じたからです。《対話》を回避し、むしろ他の解釈を斥けたい、という欲望をそこに見てとった…(鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』)

  政治の問題だけでなく、なにかの個人的な軋轢が発生した際、論理を回避した事実を隠蔽し、「好み」の問題に転嫁する姿勢は、人間関係の現場でもなんと多いことか。それが、全体主義の発生の根源的原因なのではと、個人的には、それこそ「理屈」で考えている。