アタマの中と世界を結ぶ 東山とっとりとりとめない記録鳥

人生五十年下天の内を比ぶれば、残り七年強。

天皇と人間 先崎彰容(1) 

 ベンヤミンは法のもつ虚偽を暴くこと、これを「純粋な暴力」による革命と呼んでいる。善悪の基準、あるいは何が絶対的に正しいかは、あらかじめ決まっているわけではない。そういった秩序のがんじがらめから解放され、無政府的な状態を祝祭しつつ、生きるべきなのだ。あたかも祭りの日の治外法権のように、日常から非日常へ、否、その区別さえぶっ壊し非日常が常態となるような永久革命の世界を創ろうではないか。「国家」もそうだ。国家は僕らから活力ある生を奪う。つねに境界線を引き僕らを隔離し、同時に他人を排除しようとする。つまり国境をつねに乗り越えること、流動性こそが革命なのである。(「天皇と人間―坂口安吾和辻哲郎」先崎彰容19年06月『新潮』)

 社会システムや国家システムの底意、つまりその受益者がなにを求めているのかが隠された状態で引かれた境界線は、「僕ら」を決まった牧草地へと導く小径へと誘い込み、それだけが唯一正しい牧草地であり、正しき糧であると「僕ら」に教え込む。そしてまた「僕ら」ときたら、それをわざわざ教えられた通り実行できることを競い合って誇らしげなのだ。大いにあざけられるべきものたちがそのあざけるべき者たちを嗤っている。

カルペンティエル『失われた足跡』2

 同じ場所で同じ面々にかこまれ、同じ歌がくりかえし合唱されてわたしの誕生日が祝われていると、それが前年の誕生日とことなるのは、まったく同じ味のするケーキの上のろうそくが、一本ふえたことだけではないか、という考えにいつも責めたてられた。同じ石を背負いながら、日々の坂をのぼったりおりたりしていたわたしは、衝動的な感情のかたまりによる勢み―早晩、おそらくその年のカレンダーに載っているある日に、弛緩してしまうであろう勢み―によって支えられていたのだ。そして、たまたまわたしが生をうけることになったこの世では、そうした生活を回避することは、かつての英雄や聖人たちの偉業を現代に蘇生させるのと同じくらい困難なことだった。われわれはすでに〈人間=非人間〉の時代に落ちこんでいたのであり、そこでは魂は〈悪魔〉ではなく〈会計係〉に、あるいは〈漕刑船の船長〉に売り渡されていたのである。p16

 魂がすべて〈会計係〉に、あるいは〈行政官〉たちに売り渡されているということは、われわれの魂つまり我々自身が「地獄」におちる代わりに、コンプライアンス=隷従へと落ち込んでいく、ということを表現している。経済効率性や法令遵守の発想が、聖典の代わりにわれわれの行動原理を正しく示すカノンであり、そこにしか倫理的正当性は存在しない、ということになってしまう。

 そして、その論理的帰結として、その倫理に隷従できず、批判的精神を持ち、それとは別の価値を持ち出す輩はそれこそ、ほんとうの地獄へ行くしかなくなる。

モノローグとダイアローグ

 私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダイアローグによってドラマを進展させたり飛躍させたりする谷崎潤一郎の文学と較べてみると、少なくとも一つのことははっきりするように思う。それは、谷崎文学が、日本の物語の直系であるようには、川端文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグに拠るものという点で、和歌により強く繋がっているということである。しばしば小説の約束事は無視されて一見随筆風でもあるのに、あえて日記随筆の系譜に与させないのはほかでもない。さきにもふれたように、この文学は、ゆめ論述述志の文学ではなく、感覚と直観によってこの世との関係を宙に示しているからである。            (竹西寛子川端康成 人と文学」より)

 ある種の仮想的なコミュニケーションが成立させるモノローグによって思索が深まる以上に、ダイアローグが有効な場面をわたし自身経験したことがない。発想、着想を得ることに利点があり、仮想的なコミュニケーション(=モノローグ)がある論点に対する議論の解像度を高めるのに貢献するとすれば、それらの態度は相補的で、どのみち正しい物語の展開では両方が必要になり、それは単に形式上の問題以上の差異を持たない気がする。その「形式」が重要であるという立場を認めないわけではないけれど。

 そういえば、高校時代に書いた短編小説のタイトルが「ダイアローグ」だった。原稿どこかにあるんだろうか…

連続する問題 からの着想

 だから、人々がじぶんの労働諸生産物を価値として相互に連関させるのは、これらの物象が、彼らにとって同等な種類の・人間的な・労働の単なる物象的外被として意義を持つからではない。その逆である。彼らは、彼らの相異なる種類の諸生産物を交換において価値として相互に等置することによって、彼らの相異なる諸労働を人間的労働として相互に等置する。彼らは、それを意識してはいないが、そうするのである。(マルクス資本論』第一章第四節)

…(略)…「人間的労働」を抽象するのは、思考ではなく交換行為そのものなのだ。ゆえに、交換抽象あるいは事態抽象は無意識になされる。それは、資本制が構成する無意識である。…(中略)…しかし、彼がそれをやったのは、「ブルジョア的生産様式」が「社会的生産の永遠的な自然形態」などではないということ、すなわち「社会的生産の特殊的な一種類として性格づけられ、したがってまた同時に、歴史的に性格づけられる」ということをはっきりさせるためなのである。我々が商品交換のコアにおいて「そうする」ことによって日々、抽象を成し遂げている無意識を不断に構成しているのは「商品生産」という歴史的に特殊な生産形態なのだ。そして、商品としての机が逆立ちして勝手に踊り出す以上に奇怪な、コカインの幻覚顔負けの「奇妙な幻想」を、しかも現実のただ中で無意識のうちに繰り広げているのがこの「商品生産」という形態なのである。

山城むつみ「連続する問題」第6回「シュガー」について「すばる」19年6月号)

 

 同様に考えられるのが、我々の時間認識の形態で、常に未来予測を包含しながら進行しつつある現在時という無意識の形での時間感覚が、裏切られたときにだけ錯誤として意識されるという構造も、この歴史的に特殊な、例えば高速の乗り物やデジタル機器の反応速度に対応した時間感覚の基盤として、社会の無意識を構成していると考えられないか。しかもそれぞれの人間は異なる時間を生きていながら、コミュニケーションすることによってのみ(つまりこれが上の「交換」に相当)、あるいは法的行為の構成要件として、また経済的価値を持つ労働力商品の前提としての「行為」や「集中力」の主体として、等しい基準のもと抽象化され、社会的構成体としてその都度登記されていく、という風に。

6月20日つづき 社会の運命

 文明とは、何よりもまず、共存への意志である。人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。野蛮とは分離への傾向である。だからこそあらゆる野蛮な時代は、人間が分散していた時代、分離し敵対し合う小集団がはびこった時代であったのである。             (『大衆の反逆』神吉敬三訳)

 こうした文明のなかでも「もっとも高度な共存への意志」を示したのが自由主義デモクラシーと、それにもとづく国家だと、オルテガはいう。オルテガは国家を一つの運動体としてとらえた。そしてこの運動としての国家は二つのアスペクトをもつという。「生成中の国家」と静止状態にある「既成の国家」であり、この二つはほとんど反対物だとする。いま少し敷衍していえば、国家は一方では、「人間に対して贈り物のように与えられる一つの社会形態ではなく、人間が額に汗して造り上げてゆかねばならないもの」であり、それは血統というような自然的原理から「脱却」し、「多種の血と多種の言語」を結合しつつ「自然的社会」を「超克」するところに生まれるものであり、そのかぎりで「混血的で他言語的なもの」である。「生成中の国家」とは、「内的共存」から「外的共存」へのこの変換の運動のことである。が、その過程で、運動としての国家がある種の均衡に達し、一定の静止状態に入ると、国家は「巨大な機械」に変貌する。人々はそれを「自分の生を保証してくれている」ものとして考え、それが消えていく可能性のあるものであることを忘れて、「恒久不変」の装置として受け取るだけになる。このとき国家は反対に、「社会的自発性」を吸収もしくは抹消する装置として現象しだすのである。こうして、「理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断乎として強制しようとする人間のタイプ」がはびこるようになる。

鷲田清一「小さな肯定」『街場の平成論』内田樹編より)

 

 法令遵守コンプライアンス=隷従の問題を考えるときに、「法による支配」を尊重した自発的遵守行動であるのか、それとも機械化された「恒久不変」の装置のなかで「社会的自発性」を喪失した結果の(無反省な)隷従であるのかをつねに吟味しての行動が、現代人には不可欠なものとなる。

 「悪の凡庸さ」や「地獄への道は善意で敷き詰められている」問題への考察の視角として必要。

ミシェル・ウェルベック「ショーペンハウアーとともに」

「それでも、情報や広告の流れの外に一瞬身を置くことで、誰もが自分のうちに一種の冷たい革命を起こすことができる。じつに簡単なことだ。今日ほど、世界に対して美的な態度をとることが簡単だった時代はない。ただ一歩、脇へと歩み出せばよいのだ」。(ミシェル・ウェルベック

意欲をとめ、距離の意識をもち、偏差を能動的に実践すること。

アガト・ノヴァック=ルシュヴァリエ「序文 ある革命の物語」

 

「ほんものの穀潰し」

自分から風土をぶちこわすようなやつこそ、ほんものの穀潰しというものだ

ゴットフリート・ケラー『マルティン・ザランダー』

  

 十九世紀の文学作品のなかで、私たちの生活を今にいたるまで規定している発展のみちすじはをはっきりと示しているのは、スイスの作家ゴットフリート・ケラーの作品をおいてない。ケラーが3月革命の前夜(フォアツルメ)に執筆をはじめた頃には、あらたな社会契約への希望がうるわしい花を咲かせ、国民主権も実現なるかと期待され、その後に実際に起こったこととはまったく異なる展開が待っていそうに思われた。もっとも当時すでに共和主義は当初のヒロイックな特徴をいくらか失い、各地の自由主義者のあいだには偏狭な郷党心や狭量な小市民根性が広がっていた。

W.Gゼーバルト『鄙の宿』「死は近づき 時は過ぎ去る―ゴットフリート・ケラーについての覚え書」より

 

 とはいえ、そのような偏狭で狭量な心理的動機からだけ、社会の進み行きが方向づけられるわけではない。